1941年、80歳で死去した[18]。 タゴールの死後もその文学への評価は高く、インド・バングラデシュを問わずベンガル人に愛され、文化的に重要な位置を占めている[19]。1950年1月24日には独立したインド議会によって、タゴールがベンガル語で作詞し作曲したジャナ・ガナ・マナがインド国歌に採用された。また、パキスタンが民族・地域対立によって東西で激しい対立が起こるようになると、東パキスタンはアイデンティティをベンガル語に求めるようになり、ベンガル語世界の生んだ最大の詩人であるタゴールの評価も高くなっていった。1970年のバングラデシュ独立戦争時には、タゴールが1905年に作詞した「我が黄金のベンガルよ」がバングラデシュ解放軍によって歌われるようになり、独立後の1971年1月16日には正式に国歌として採用された[20]。また、同じくベンガル出身の巨匠である映画監督のサタジット・レイは、タゴールの作品に基づいた映画も多く製作しており[21]、1961年にはタゴールの生涯をつづったドキュメンタリー、「詩聖タゴール
影響
日本との関係1916年の訪日時のタゴール(中央)。右端に横山大観。1916年の訪日時、軽井沢で学生を前に瞑想指導を行うタゴール。
早くから日本に対する関心も深く、岡倉天心・河口慧海・野口米次郎らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価した。5度にわたって訪日している。
1916年、タゴールが来日した折、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の招きを受けて日本女子大学校で7月に講演をおこない、さらに8月に軽井沢を訪れ(三井邸に滞在)、日本女子大学校が毎年実施していた修養会に講師として招かれ、学生を前に「瞑想に就きて」という講演や瞑想指導をおこなっている[22][23]。
タゴールは、1924年の3度目の来日の際に第一次世界大戦下の対華21か条要求などの行動を「西欧文明に毒された行動」であると批判し、満洲事変以後の日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」であるとしている[24]。
タゴールは中国について、「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」[25]と述べた。タゴールのこうした日本批判に対して、友人でもあった野口米次郎とは論争になった[26]。野口は日本は中国を侵略しているのではなく、イギリスの走狗と戦っているのだとした[27]。
1929年を最後に、タゴールは来日することはなかった[24]。
1959年、東洋大学学長大倉邦彦、評論家山室静、平凡社の下中弥三郎、中村元らによって、タゴール記念会・タゴール研究所が設立。タゴール研究やベンガル語の講義が行われた。1961年にはタゴール生誕100年祭が開催、アポロン社から『ギーターンジャリ』『タゴール撰集』が出版された。
1980年、タゴール生誕120年にあたるこの年、高良とみ日本タゴール協会長らが中心となった詩聖タゴール像設立委員会により、長野県軽井沢町の碓氷峠の見晴台に高田博厚作「 ⇒タゴール像」が建立された。背後の壁にタゴールの言葉「人類不戦」の文字が記されている[22]。
1981年、森本達雄が中心となり、『タゴール全集』が出版された[24]。
著作(日本語訳)
タゴール詩集 ギーターンジャリ(渡辺照宏訳、岩波文庫、1977年)、度々再刊
元版は「タゴール著作集 第3巻」アポロン社(全7巻)
ギタンジャリ(森本達雄訳、第三文明社・レグルス文庫、1994年)