ラビの戦い
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ラビとポートモレスビー、ソロモン諸島の位置関係

ラビの戦い(ラビのたたかい・連合軍呼称:ミルン湾の戦いBattle of Milne Bay)は、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年8月下旬から9月初旬に渡り、東部ニューギニアミルン湾ラビにおいて、日本軍とオーストラリアアメリカ連合軍との間で行われた戦闘である。連合軍が建設した飛行場に対し、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたが敗退した。
背景

日本軍は、ニューギニア島南岸の連合軍拠点ポートモレスビーの攻略を計画したが、珊瑚海海戦の結果、海路からの攻略は失敗に終わった。その後、連合軍側は、なおも日本軍の攻略作戦が行われることを警戒し、ニューギニア島東端の良好な泊地であるミルン湾沿岸のラビに哨戒拠点を設置することにした。これにはラバウル攻撃のための出撃拠点とする目的もあった。1942年(昭和17年)6月下旬に、アメリカ軍工兵中隊などが上陸し、飛行場の建設を開始した。防衛のために「ミルン・フォース」が編成され、8月までに次々と部隊が送り込まれた。飛行場は2本の滑走路が完成し、さらに1本の建設が進められた。

一方の日本軍は、今度は陸路からのポートモレスビー作戦に着手した。ところが、すでに南海支隊の先遣隊がニューギニアに上陸して戦闘を始めた後の8月4日、海軍偵察機により、ラビで連合軍の飛行場が発見された。制空権が奪われることを恐れた日本海軍第8艦隊司令部は、陸軍にラビ攻略への協力を打診した。ニューギニアは陸軍の担当地区のはずであったが、8月7日にガダルカナル島の戦いが始まってしまった事情もあり、陸軍の第17軍司令部は余裕が無いとして兵力提供を拒絶した。やむなく、海軍独力での攻略に決まり、一木支隊揚陸の成功によりガダルカナル島の戦いに目処がついたと判断された8月21日、ラビ攻略作戦は発令された。

当時、第8艦隊司令部では、ラビの連合軍は展開して間もない歩兵2?3個中隊程度の小兵力と推定し、陸軍部隊に比べて戦力の劣る海軍陸戦隊でも勝算はあると見ていた。しかし、実際には、連合軍兵力は2個旅団以上に達していた。
参加兵力
日本軍

地上部隊 - 戦闘員約1600名、後方要員約360名

呉第5特別陸戦隊(呉5特)の主力 - 司令:林鉦次郎
(英語版)中佐、兵力612名および九五式軽戦車2両

呉第3特別陸戦隊の主力-司令:矢野実(英語版)中佐、兵力576名

佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力228名(本隊353名は別に舟艇機動の予定も到達できず。)

横須賀第5特別陸戦隊の主力 - 司令:安田義達大佐、兵力約200名

第10設営隊の一部 - 軍属362名


航空部隊 - 零戦約20機、99艦爆約10機がブナに展開。

連合軍

「ミルン・フォース」 - 司令官:シリル・クローズ
(英語版)豪陸軍少将 、総兵力約9000名

オーストラリア軍 - 戦闘員約6500名(うち歩兵約4500名)、後方要員約1000名

第7旅団 - 歩兵3個大隊

第18旅団 - 歩兵3個大隊

その他 - 民兵2個大隊、野砲1個中隊、高射1個中隊など


アメリカ軍 - 第709高射中隊および第43工兵連隊F中隊など約1400名

航空部隊 - 3個飛行中隊(P-40戦闘機約40機、ハドソン爆撃機若干)のほかポートモレスビーより支援。

 連合軍側には戦車はなく、日本軍の九五式軽戦車2両は大きな脅威となった。
戦闘の経過
日本軍の上陸日本軍の行動図

8月24日、攻略部隊(呉5特・佐5特の一部・第10設営隊)は、輸送船「南海丸」と「畿内丸」に乗船し、第18戦隊(軽巡「天龍」「龍田」)ほか駆逐艦5隻(「浦風」「谷風」「浜風」等)と駆潜艇2隻の護衛の下で出撃した。船団はラビの連合軍航空隊に発見されて空襲を受けたが、損害は軽微であった。翌8月25日夜、船団はミルン湾に到着し、抵抗を受けることなく上陸したが、誤って予定地点から10km以上も東にずれた飛行場から遠い位置への上陸となってしまった。

橋頭堡の防衛を佐5特と設営隊に任せ、上陸部隊指揮官の林中佐は呉5特を率いてただちに飛行場への夜襲を実行しようとした。


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