ラドヤード・キップリング
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自伝でキプリングはこの時期を恐怖と呼び、ホロウェイ夫人による虐待と無視が彼の文学人生の始まりを早めたかもしれないという皮肉について「7つか8つの子供は (特に寝入りばなには)、満足げに矛盾したことを言うでしょう。それらの矛盾を嘘だとして、朝食の時に言い募られたとしたら、人生は楽ではない。私はいじめについてもある程度は知っていたが、これは宗教的であり科学的である計算された拷問だった。だが私が話をする時に必要であるとさとった嘘は、文学活動の基礎になったとも推測できる。」と述べている[19]。この頃には、父から送られた物語を読むことに逃げ込んでいた[20]

妹のトリックスは、ホロウェイ夫人から息子との結婚を望まれるようになるほど、この別荘でうまく暮らした[21]。二人の子供達にはイングランドの親戚も訪問した。クリスマスの一か月間は母方の叔母ジョージアナとその夫エドワード・バーン=ジョーンズの家で過ごし、そのロンドンフルハムの農場をキプリングは「私を救ってくれたと信じられる天国」と呼んだ[19]。1877年の春、母のアリスがインドから戻り、子供達を貸別荘から連れ出した。キプリングは「最愛の叔母は、私がどのように扱われていたかを決して話さなかった理由を聞くかもしれない。子供達は、永遠に確かなものとして受け入れられるものの訪れのために、動物のように口を閉ざすでしょう。酷い扱いを受けた子供達は、もし彼らが刑務所内の秘密のことを自ら暴露したら、何か起きるかをよくわきまえています。」と回想する[19]

1878年1月、キプリングはデボンウェストワード・ホー!にある、軍人の子供のために1874年に設立されたユナイテッド・サービシーズ・カレッジに入学。最初は学校に馴染めなかったが、後には固い友情をもたらし、ずっと後に出版される学生もの『ストーキイと仲間たち』の設定を提供した。在学中はイギリス、フランスロシアの文学を愛読し、また学友会雑誌の編集部員を務め、いくつかの詩も発表する[22]。またこの時期においてキプリングは、サウスシーに帰っていたトリックスの下宿仲間であるフローレンス・ガラードに出会って恋に落ちた。フローレンスは後に、最初の小説『消えた灯』のメイシーのモデルとなる[21]

学生時代の最後になって、両親はキプリングをオックスフォード大学に進学させたかったが学費を調達できず[15]、奨学金を得られるほどの学力でもないと判定され[21]、父は自身が校長を務めるメイヨー美術学校と館長を務めるラホール博物館のある、パキスタンパンジャーブの都市ラホールで息子のための仕事を探し出した。キプリングは小さな地方新聞「シビル&ミリタリー・ガゼット」紙の編集助手として働くことになる。

1882年9月20日にインドに向けて出航し、10月18日にボンベイに着く。後年キプリングはこの瞬間を「16歳と9か月だったが、4、5歳上に見えた。生やしていた髭は1時間ほどで母の怒りにより剃らされた。自分の生まれたボンベイで自分を再発見し、観光地を巡り、私の知らない現地語の会話の中で雰囲気が私を運んだ。インド生まれの他の少年たちは、同じことが彼らに起きたことを話してくれた。」。この到着がキプリングを変えたことを「私の人々が住むラホールまで汽車で3、4日かかった。私のイギリスでの日々はとうに消え失せ、帰ってきたという強い思いが湧いた」と述べている[19]
青年期 (インド時代と世界旅行)

キプリングが「女主人で最も真実な愛」と呼んだ、ラホールの「シビル&ミリタリー・ガゼット」は[19]、1年を通してクリスマスイースターの1日ずつを除いて週に6日発行された。キプリングは編集者ステファン・ウィーラーの元で働き、ここでパンジャーブ・クラブのメンバーとなり、様々な分野の在印イギリス人や現地のインド人と交流した[20]。彼の書きたいという欲求は止められず、記事と並行して詩を書いて掲載[20]、1886年、彼は最初の詩集Departmental Dittiesを刊行する。この年には新聞の編集者も交替があった。新しい編集者ケイ・ロビンソンは創造的な自由を認め、キプリングは短編小説を寄稿するよう依頼された[2]ラホールの駅

1883年の夏、避暑地として知られる、英領インドの夏期の首都シムラーを訪ねる。これはインド総督の慣行により、政府を6か月間ここに移すために設立されたもので、町は権力と歓楽の中心になった。キプリングの家族は1年間滞在し、父ロックウッドは教会で働くことを依頼された。彼は1885年から88年まで、毎年の休暇をシムラーで過ごし、キプリングのガゼット紙のための小説の多くが、この町が舞台になった。この時期についてキプリングは「シムラーでの1か月の休暇、家族にとっての避暑地は、すべて純粋な喜び、黄金の時間だった。それは鉄道と路上での暑さと不快感で始まる。そして暖炉のある寝室の涼しい夜で終わる。翌朝は目覚めの紅茶 (30種類以上ある!) を持って来る母と、長い会話を繰り返す。その頭脳を再生する作業は、仕事のための余暇でもあり、時間のすべてでもあった。」と書いている[19]。ラホールに戻ると、1886年11月から1887年6月の間に、39の小説をガゼット紙に掲載する[2]。このほとんどは、22歳の誕生日の1か月後の1888年1月にカルカッタロンドンで出版された最初の短編集『高原平話集』に収められている。1887年11月には、イラーハーバードのより大きな姉妹紙『パイオニア』紙に転勤となった。


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