ラトコ・ムラディッチ
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アメリカ合衆国はムラディッチとラドヴァン・カラジッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけている[4]。セルビア政府は2007年10月11日に、ムラディッチの逮捕に繋がる情報に対して100万ユーロの懸賞を掛けると発表した[5]。カラジッチは2008年7月に逮捕され、ハーグに送られたものの、ムラディッチの所在についてはその後も不明であった。2011年5月26日に、ムラディッチの逮捕がセルビアのボリス・タディッチ大統領により発表された[6]。2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるオランダハーグに移送され[7]、2017年11月に終身刑を言い渡され[8]、2021年に刑が確定した[9]
経歴

サラエヴォ南西部ヤホリナ山近くの村ボジャノビッチにて生まれる。ムラディッチが生まれた時には、この地域はナチス・ドイツの傀儡国家としてつくられたクロアチア独立国に属していた。ムラディッチの父ネジョ(Ne?o)はパルチザンゲリラ戦闘員であり、1945年春に戦死している。

小学校卒業後、サラエヴォ市内の「チトー商会」にて板金職人として働いていたが、1961年にゼムンの軍事工業学校に入学し、次にKOV士官学校、そして士官大学をトップの成績で卒業した。1965年9月27日、第3軍区に配属され、11月4日にスコピエにて歩兵第89連隊の補給部隊小隊長として勤務するようになる。1969年4月、偵察小隊指揮官に任ぜられ、以降順調に出世を重ねた。

1991年6月、ムラディッチは緊迫したコソボプリシュティナの部隊の副司令官となる。その後すぐにクロアチア情勢の急激な変化に伴いクニンへの移動を命じられ、ユーゴスラビア人民軍(Yugoslav People's Army, 以下JNA)の第9部隊の司令官となり、クロアチア軍との戦いに身を投じてゆく。1991年10月4日、ムラディッチは少将(Major General)に昇進する。ムラディッチの指揮下、クロアチア紛争で戦っていたJNAはダルマチア地方クロアチアの他の地域から分断させようとするも失敗。一方でムラディッチはミラン・マルティッチの民兵組織を援助し、キイェヴォの占領を支援した。1992年4月24日、ムラディッチは中将(General Lieutenant-Colonel)に昇進する。ムラディッチと彼の部下達は、ボスニア共和国の独立宣言の1ヵ月後の5月2日にベオグラードからの指令を受け、サラエヴォの街を包囲、街と外を繋ぐ交通網を全て封鎖したうえ、水や電気といった生活インフラも停止させる。これがその後4年に渡ったサラエヴォ包囲の始まりであった。サラエヴォには断続的な爆撃とスナイパーによる無差別射撃が加えられた。5月9日、ムラディッチはユーゴスラビア人民軍(JNA)の第2軍区司令部参謀長兼任副司令に昇進。翌5月10日には司令官に任ぜられた。

1992年5月12日、ボスニア・セルビア議会はスルプスカ共和国軍 (VRS) を作ることを決定。ムラディッチはVRSの参謀総長に任命され、以降1996年12月まで任官(1992年5月にJNAがボスニアから撤退し、JNAの第二軍管区はVRSの中核となった)。1994年6月24日には8万の兵員を隷下に置く大将(General Colonel)に昇進した。

1995年7月、ムラディッチの軍はサラエヴォから撤退。以後、国連の安全地帯であったスレブレニツァジェパの解放を求めるNATO軍によるデリバリット・フォース作戦によって苦しめられる。スレブレニツァではムラディッチの命令のもと、推定で8,300人が処刑されたと見られている(スレブレニツァの虐殺)。

1995年8月4日、クロアチア軍はクライナ・セルビア人共和国への大規模な攻撃の準備を整えた。カラジッチはムラディッチを司令官の地位から外し、以降は自身で軍を指揮すると発表。カラジッチは、ボスニア西部の2つのセルビア系主要都市を失った責任はムラディッチにあるとし、命令系統の変更の口実とした。ムラディッチは軍事顧問に降格されることになったが彼はこれに抗議し、セルビア人達に声援を求めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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