ラトコ・ムラディッチ
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ラトコ・ムラディッチ(セルビア語:Ратко Млади? / Ratko Mladi?、IPA: ['ratk? ?mla?dit?]、1942年3月12日[1][2][3] - )は、ユーゴスラビア、およびスルプスカ共和国の軍人。ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立した際、ボスニア・ヘルツェゴビナから一方的に分離を宣言したセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の参謀総長となった。ムラディッチはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が続いた1992年から1995年までスルプスカ共和国軍(セルビア語: Vojska Republike Srpske、以下VRS)の参謀総長であった人物である。

ムラディッチは1992年から1995年にかけて行われたサラエヴォに対する包囲攻撃(サラエヴォ包囲)と、1995年7月11日にスレブレニツァで8000人以上のボシュニャク人が殺害されたスレブレニツァの虐殺に関連し、ジェノサイド戦争犯罪人道に対する罪などの容疑でハーグ旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)から起訴された。

ムラディッチに対しては、ICTYのRule61に基づいて国際令状が出された。アメリカ合衆国はムラディッチとラドヴァン・カラジッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけている[4]。セルビア政府は2007年10月11日に、ムラディッチの逮捕に繋がる情報に対して100万ユーロの懸賞を掛けると発表した[5]。カラジッチは2008年7月に逮捕され、ハーグに送られたものの、ムラディッチの所在についてはその後も不明であった。2011年5月26日に、ムラディッチの逮捕がセルビアのボリス・タディッチ大統領により発表された[6]。2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるオランダハーグに移送され[7]、2017年11月に終身刑を言い渡され[8]、2021年に刑が確定した[9]
経歴

サラエヴォ南西部ヤホリナ山近くの村ボジャノビッチにて生まれる。ムラディッチが生まれた時には、この地域はナチス・ドイツの傀儡国家としてつくられたクロアチア独立国に属していた。ムラディッチの父ネジョ(Ne?o)はパルチザンゲリラ戦闘員であり、1945年春に戦死している。

小学校卒業後、サラエヴォ市内の「チトー商会」にて板金職人として働いていたが、1961年にゼムンの軍事工業学校に入学し、次にKOV士官学校、そして士官大学をトップの成績で卒業した。1965年9月27日、第3軍区に配属され、11月4日にスコピエにて歩兵第89連隊の補給部隊小隊長として勤務するようになる。1969年4月、偵察小隊指揮官に任ぜられ、以降順調に出世を重ねた。

1991年6月、ムラディッチは緊迫したコソボプリシュティナの部隊の副司令官となる。その後すぐにクロアチア情勢の急激な変化に伴いクニンへの移動を命じられ、ユーゴスラビア人民軍(Yugoslav People's Army, 以下JNA)の第9部隊の司令官となり、クロアチア軍との戦いに身を投じてゆく。1991年10月4日、ムラディッチは少将(Major General)に昇進する。


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