ラトコ・ムラディッチ
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2006年2月21日、ムラディッチはベオグラードで逮捕され、トゥズラ経由で旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるデン・ハーグオランダ)に移送されると見られていたが、セルビア政府はこれを否定した[11]。しかし、セルビア政府は、降伏に関してムラディッチと交渉しているのではないかという噂は否定しなかった。

2006年2月22日、ICTYのカルラ・デル・ポンテはムラディッチが逮捕されたという噂を全く根拠の無いものとして否定した。カルラ・デル・ポンテはセルビア政府に対して、ムラディッチ逮捕をこれ以上遅らせないことを求め、ムラディッチは1998年以来セルビアにおり、セルビア当局の手の届く範囲にいると語った。また、逮捕されないならば、セルビアのEU参加に大きな障害となるであろうとも語った。

2006年2月22日、ルーマニア政府[12]とセルビアのメディアは、ムラディッチが、ルーマニアとイギリスで構成された作戦によってルーマニアのドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで逮捕されたと報じた。この作戦は成功しなかったが、しかしセルビア・モンテネグロがEU参加のための努力を表すものとなった。

2006年5月1日、カルラ・デル・ポンテにより提示された逮捕期限が過ぎ、セルビアとEUの間の加盟交渉は中断された。ムラディッチはベオグラードにおり、住居を定期的に変えているといった報道もされたが、真偽の程は明らかではなかった。

その後、ムラディッチはロシアにいるという報道もなされた。2006年6月には3度目の卒中の発作を起こし、回復の見込みは少ないとも報道された。同時期にセルビア人民主党の報道官であるアンドリヤ・ムラデノヴィッチ(Andrija Mladenovi?)は、逮捕される前にムラディッチが死亡した場合、EU加盟交渉中断の責任はどこにあるのかとの疑問を呈した。いくつかの情報筋は、加齢と健康状態の悪化により、ムラディッチの外見は以前と比べて変わってきているとも伝えられた[13]

2011年5月26日に、セルビアのボリス・タディッチ大統領によりムラディッチが同国内で逮捕され、身柄は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷へ引渡す方針であることが発表された[6]。なお、セルビア首都ベオグラードで彼の逮捕をめぐる抗議デモが起きている[14]

2011年5月31日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のあるデン・ハーグに移送された[7]
逮捕後・裁判

2011年6月3日、人定質問や起訴事実の朗読などの予備審理のため、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に初出廷した[15]ジェノサイド、人道に対する罪など11の罪状を挙げた起訴事実の読み上げに対し、ムラディッチ被告は「不快だ。聞いたこともない」と述べ、罪状認否を拒否した[15]

2011年7月4日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に2回目の出廷[16]。裁判長が起訴状の読み上げに移った際、ムラディッチ被告は「ノー、ノー、ノー。それを読むな。一言もだ」と叫び裁判を妨害をし、裁判長に退廷を命じられた[16]

2012年5月16日、ムラディッチ被告の裁判が開始された[17][18]。法廷では「喉をかき切るジェスチャー」を行い、裁判長から咎められた[17][18]

2015年6月、裁判の証人としてハーグに召喚するため、ノルウェー人将校を探しているとメディアが報じている[19]

2016年12月7日、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で検察は最高刑となる終身刑を求刑し[20]2017年11月22日に終身刑が言い渡された[21]


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