ラトガーズ大学
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さらに、ニューアーク・キャンパスには、行政大学院(29位)及び法科大学院(86位)などの専門大学院が設置されている[15][16]

そのほか大学研究施設の全米ランキングに於いては、哲学(2位)、地質学(9位)、地理学(13位)、言語学(17位)、芸術史(20位)、経営工学(21位)、比較文学(22位)などが挙げられる[17]

Wall street&Technologyによれば、ビジネススクール内に設置されている数理ファイナンスの修士プログラムは全米で7位と評価され、前後にはプリンストン大学(6位)とスタンフォード大学(8位)がランクされている[18]
スポーツハイポイントソリューションスタジアムの様子

スクールカラーはスカーレット(緋色または)。チーム名は「ラトガース・スカーレットナイツ」(Rutgers Scarlet Knights)。

2006年時点でアメリカンフットボール、男女サッカーフィールドホッケー、女子バレーボール、女子バスケットボールなどのチームが優秀な成績を収めている。ビッグ・イースト・カンファレンスに属していたが、2014年から新しくビッグテンカンファレンスに移籍することになった。

ピスカタウェイにあるアメリカンフットボールのスタジアム(High Point Solutions Stadium)は改築後五万人を収容する。

アイビーリーグの前身となった、4校によるスポーツリーグに加盟していた。ちなみにこの4校リーグは、ラトガース大学、コロンビア大学プリンストン大学、およびイェール大学で、設立は1876年11月にさかのぼる。

アメリカン・フットボールで、初の大学対抗試合は、ラトガースで行われた(1869年11月6日、対プリンストン大学)。
その他

College Avenueにあるアレキサンダー図書館では
ウィリアム・グリフィスが集めた当時の資料が数多く保存されている。

College Avenueにある、トラックを改造して作られた屋台の群からなる「グリース・トラック」では、ステーキ鶏肉チーズフレンチフライモッツァレッラハラペーニョなどを含んだ、健康的ではないもののボリュームのあるサンドイッチを味わえる。腹を空かせた学生に大変人気があり、大学名物の一つ。

日本との関わり

1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印されると、アメリカのプロテスタント核派(特に米国の聖公会、長老教会、オランダ改革派の三派)が一斉に日本に宣教師を派遣した。オランダ改革派に属していたのが明治維新後の日本の近代化に大いに関係するブラウンズシモンズフルベッキである。

フルベッキは、明治政府の顧問となり、多くの留学生を斡旋したが、必然的に自らの教派の学校であるラトガース大学に多くを留学させることになった。幕末から明治18年までに、ラトガース大学や付属のグラマースクールで学んだ日本人学生は300人以上いた。その中には、明治新政府の要人になる人材も多数含まれた。まず、フルベッキがアメリカに送った最初の日本人が、幕府の海外渡航解禁前の慶応2年(1866年)にラトガースに留学した横井小楠の甥の横井佐平太・大平兄弟だった。その他、福井藩士の日下部太郎岩倉具視の息子の岩倉具定具経兄弟、勝海舟の息子の勝小鹿、最後の上田藩主の松平忠礼とその異母弟・松平忠厚松方コレクションで有名な松方幸次郎らもラトガースに留学していた。また、ラトガースからはウィリアム・グリフィスエドワード・ウォーレン・クラークなど宣教師となった卒業生を日本に教師として派遣し、日本でのキリスト教布教と近代化に大きな貢献をした。初代駐日公使ハリスの後任として、リンカーン大統領が任命したのも、ラトガース大学出身のオランダ改革派ロバート・プルインであった。

1867年、福井藩最初の海外留学生として日下部太郎は第16代福井藩主・松平春嶽の命を受けて渡米し、ラトガース大学に入学した。日下部は学業では素晴らしい成果を修めたものの、卒業を前に肺結核に倒れ、1870年に26歳で没した。日下部の墓は今もラトガース大学のあるニュージャージー州ニューブランズウィック市にある。日下部と深い親交を結んだウィリアム・グリフィスは、のちに日下部の出身地である福井藩の藩校で教鞭を取る。そのような関係から、日下部の出身地である福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市関係にある。

その後も幕末からの10年間で少なくとも300人以上の日本人がラトガース大学に留学した。その中には松方コレクションで有名な松方幸次郎海援隊隊士として活動した菅野覚兵衛白峰駿馬、さらに勝海舟の嫡男・勝小鹿岩倉具視の息子である岩倉具定岩倉具経兄弟、最初に渡米した横井佐平太・横井太平兄弟がいた[19]
ラトガース大学出身の関連人物
19世紀

駒井重格 - 専修学校(現・専修大学)創立者の一人、経済学者、官僚

工藤精一 - 東京出身。ラトガース大学を正規に卒業。のちに札幌農学校(現・北海道大学)、立教大学校(現・立教大学)、専修学校(現・専修大学)教授

日下部太郎 - 越前福井藩

松平忠礼 - 信濃上田藩第7代藩主(最後の藩主)。ラトガース大学を正規に卒業。のちに子爵

横井左平太・大平 - 熊本出身。横井小楠の甥

畠山義成(留学中は杉浦弘蔵と名乗っていた) - 東京開成学校東京大学の前身の一つ)校長[20]

服部一三 - 長州藩士。ラトガース大学を正規に卒業。のちに岩手、広島、長崎、兵庫県知事

ジェームス・ハミルトン・バラ - 宣教師。日本で最初にできたプロテスタント教会の牧師

ウィリアム・グリフィス - 明治時代のお雇い外国人明新館大学南校の教師

エドワード・ウォーレン・クラーク - 明治時代のお雇い外国人静岡学問所東京開成学校の教師

20世紀

中妻照雄 - 慶應義塾大学経済研究所所長、慶應義塾大学経済学部教授


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