近代以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、19世紀には世界の大半を植民地化するようになった。当時の列強は、ロシア帝国と大日本帝国を除きすべてがラテン文字の使用する国家であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の覇権の影響を受け、西方教会圏の諸言語以外においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もとより文字を持たない言語が新たに文字を採用する場合と、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えた場合がある。
特に、文字を持たない言語が新たに正書法を定める場合については、新たに文字を発明したり、そのほかの文字を転用したりするよりも、多くラテン文字が採用された。こうした無文字言語社会に積極的に接触する者には、カトリックやプロテスタントのキリスト教の宣教師が多く、彼らは布教のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである[3]。ラテン文字が表音文字であり、各地の言語を音訳しやすかったこともこの変化を進める要因となった[4]。あるいは基礎的なラテン文字の文字数は、26文字とキリル文字などに比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした[注 2]。
もっとも文字数が少ないことは、表記できる発音が少ないことと表裏一体である。こうした発音を文字としてあらわすために各言語は、ひとつの発音に2文字以上を用いたり、これを1つの文字として合字することでリガチャをさらに増やしたり、あるいはダイアクリティカルマークを付す文字を増やしたりすることで文字の不足を補ったほか、新しい文字や声調記号などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化はアフリカやオセアニアなどで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。「アフリカの言語」および「オセアニアの言語」も参照
ヨーロッパ以外の地域において、もとより文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋の列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリックやプロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で支配層の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。
こうして近代以降に植民地化を原因としてラテン文字に切り替えた言語には、東南アジアの言語においてはアラビア文字を基にしたジャウィ文字から切り替えたインドネシア語やマレー語、アラビア文字とブラーフミー系文字であるアリバタの併用から切り替えてフィリピン語、漢字とそれを基にしたチュノムの併用から切り替えたベトナム語、アフリカ東部の言語においてはアラビア文字から切り替えたスワヒリ語などがある。「インドネシア語の正書法」、「マレー語の文字」、「フィリピン語の歴史」、「ベトナム語の表記法の歴史」、および「スワヒリ語の歴史」も参照
この例外はトルコ語であり、オスマン帝国は植民地化を受けていなかったものの、これに代わってトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクがトルコの近代化を目指して使用文字の変更を決定し、1928年にアラビア文字から置き換えられたものである[5][6]。「トルコ語の歴史」も参照
またそれとは別の例外として、すべての植民地において必ずしも宗主国がラテン文字化を推進したり、あるいはラテン文字化を完了したりしたわけではなく、南アジアのインド地域やキリスト教化できなかったイスラム世界にあるアラブ圏の各国などのように植民地支配を受けたが、用いる文字を変更しなかった地域も多い。「インドの言語」および「アラビア文字化」も参照
植民地となった地域がラテン文字を用いるようになるのとは別に、ヨーロッパにおいても18世紀以降、西方教会地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。ルーマニア語はルーマニア正教会のもとで正教会圏であったため文語においてキリル文字を使用していたが、16世紀ごろには一部地域でハンガリーの言語であるマジャル語をまねた筆記法が用いられ、18世紀には民族主義の高まりによりロマンス諸語であることが強く意識され、ラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった[7]。アルバニア語においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、1908年にラテン文字による表記が正式に決定した[8]。「ルーマニア語アルファベットの歴史」も参照
旧ソビエト連邦地域におけるラテン文字化詳細は「ラテン文字化」および「キリル文字化」を参照
旧ソビエト連邦の諸言語の表記は、当初ラテン文字を採用していたものの、1940年にキリル文字が採用され、ソビエト連邦内の多くの言語でキリル文字化が進められた。しかしソビエト連邦の崩壊後、これら諸言語のいくつかにおいてふたたびラテン文字を再導入する動きが活発になった。元来、アラビア文字を用いていた地域においてはウズベク語やトルクメン語、アゼルバイジャン語が、初期のソビエト連邦にラテン文字に切り替えられ、その後1940年に連邦政府の言語政策の変化によりキリル文字に再び切り替えられた[9]が、ソビエト連邦の崩壊後、ウズベク語とトルクメン語とにおいてラテン文字表記の導入が決定され、以前定められたものとは異なるものの、再びラテン文字への切り替えが行われることとなった。「ウズベク語の表記」、「トルクメン語の表記」、および「アゼルバイジャン語の表記」も参照
同じく元来、アラビア文字を用いていたカザフスタンにおいてはソビエト連邦崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が2017年10月に、カザフ語の表記をラテン文字に改める準備を整えるよう担当部署に指示した[10]。2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し[11]、2025年には完全にカザフ語の表記をラテン文字に移行することを表明した[12][13]。「カザフ語の歴史」および「カザフ語アルファベット」も参照
このほか、ロマンス諸語に属し、ルーマニア語[注 3]ときわめて似ている関係にあるモルドバ語においては、従前のラテン文字から1940年にキリル文字化されたものの、1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字を用いる国となった[7][注 4]。