ラテン帝国
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その後、リュンダクス川の戦い(英語版)でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、ニンファエウム条約でニカイア帝国との国境を画定し[18]、同じ頃にブルガリアとも講和条約を締結した[10]
衰退と崩壊

しかし、1216年にアンリ1世が死去すると帝国は再び衰退しはじめた。1217年、アンリ1世の後を継いでローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていたフランス人のピエール2世・ド・クルトネーは、ローマからコンスタンティノープルへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され[19]、2年後に獄中で死去した。1218年にはブルガリア皇帝に即位したイヴァン・アセン2世がラテン帝国との同盟を結び、1221年にラテン帝国側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した[20]

1222年、ニカイア帝国でヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスが即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝テオドロス1世の弟(英語版)らはそれを妨げようと試みた[21]。しかし、失敗した彼はラテン皇帝ロベール1世に対して派兵を依頼し、1225年にポイマネノンの戦い(英語版)が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した[22]1223年にはエピロス専制侯国にサロニカを奪われた[20]

1228年までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年であった皇帝ボードゥアン2世イヴァン・アセン2世の娘エレナ(英語版)の婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン帝国側はエルサレム王だったフランス人貴族ジャン・ド・ブリエンヌに摂政の地位を提供し[23]て建て直しを計り、ブリエンヌの娘(英語版)がボードゥアン2世と結婚した。

ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、1235年コンスタンティノープル包囲戦を仕掛けるも失敗し、1237年にジャン・ド・ブリエンヌが死去すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した[24]。ボードゥアン2世の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。

1241年頃にはモンゴル帝国による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は後にモンゴル帝国の首都カラコルムに使者を派遣し、家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている。[誰によって?]

その後、ミカエル8世パレオロゴスのニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月25日の夜中、ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、ニカイア帝国軍がコンスタンティノープルに攻め入った。最後の皇帝ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され逃亡、帝都を脱した[25][要文献特定詳細情報]。ここにラテン帝国は崩壊し、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した(コンスタンティノープルの回復 (1261年)[26]。ボードゥアンはその後ローマに赴き、教皇ウルバヌス4世が将来ボードゥアンを皇位に復することを約束した[27]が、ウルバヌス4世は間もなく死去しボードゥアンも復位することはなかった。皇位は複数の詐称者[誰?]とともに14世紀まで存続した。1383年ジャック・デ・ボーが死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続け、1579年オスマン帝国ナクソス公国を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残った。
年表

1204年 - フランドル伯ボードゥアン9世が、初代皇帝ボードゥアン1世として即位。

1205年 - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。

1206年 - アンリ1世が皇帝に即位。

1216年 - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。

1217年 - ピエール2世・ド・クルトネーがエピロス専制侯国に捕らえられる。

1225年 - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。

1242年 - モンゴル帝国軍に大敗。

1261年 - ヴェネツィア海軍の留守中の7月にニカイア軍にコンスタンティノープルを占領され、ラテン帝国は滅んだ。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 東ローマ帝国は1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻した。
^ 国境は明確ではない。
^ (コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)1273年から1283年までラテン皇帝の称号を有した、フィリップ1世・ド・クルトネーにより使われた国章。このデザインは時として、近世の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された[2]
^ 「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称。
^ ロマニアとは「ローマ人の土地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。「ロマニア」という語は数世紀にわたり、東ローマ帝国臣民によって自国のために非公式に使われた。
^ これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、ギリシア、ハンガリーの支持を得たモンフェッラート侯ボニファーチョ1世が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
^ ここでの「公国(英語: duchy)」という語は、旧東ローマ帝国領で通常ドゥクスによって管理されたテマ制という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する[7]
^ 4分の1。

出典^ a b c d Матанов 2014, p. [要ページ番号]
^ Hubert de Vries, (2011年). “ ⇒Byzantium: Arms and Emblems”. hubert-herald.nl. 2016年11月10日閲覧。
^ ヘリン 2010, p. 349.


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