1980年代以降、欧米ではラップをフィーチャーしたヒット曲が続々生まれた[31]。
1984年3月25日発売のスーパー・エキセントリック・シアターのアルバム『THE ART OF NIPPONOMICS』に収録された「BEAT THE RAP」(作詞:高橋幸宏、ピーターバラカン、SET、作曲・編曲:高橋幸宏)は、明らかにラップミュージックを意識して制作されていると評価される[26]。佐野元春は1984年6月21日リリースのシングル「COMPLICATION SHAKEDOWN」、11月21日リリースのシングル「NEW AGE」でラップへの接近を試み[出典 40]、吉幾三がアメリカのラップを参考にして制作した「俺ら東京さ行ぐだ」は、1984年11月25日にリリースされ、オリコンシングルチャート4位のヒットを記録した[出典 41]。また同年12月21日のシングル「涙のtake a chance」で、ブレイクダンスを導入した風見しんごは、1985年4月24日リリースのシングル「BEAT ON PANIC」で一部ラップを取り入れた。1980年代前半にラップミュージックを意識して制作された楽曲には他に、1984年のイラマゴ「TYOロック」がある[26]。但し1980年代前半の日本語ラップは「五七調」のような、いかにも日本的なリズムという評価もある[26]。以後ラップはJ-POPなど日本のポピュラー音楽にも取り入れられる手法となった。
いとうせいこうは早稲田大学に入学してすぐ1980年か1981年くらいに極東放送(FEN)から流れてきた間のすごくあるビートの上に言葉が乗ってくるファンキーな曲を、まだラップとは知らなかったがカッコよくて認識はしていた[出典 42]、それで大学の「FEN研究会」でラップの真似事のようなことをやった[26]、また1982年12月にオープンした六本木インクスティックで[39]、1984年10月にオープンした「クラブD」でDJをやっていた藤原ヒロシにステージに呼ばれ、マイクを持たされラップの真似事やった[26]、「それが初めてクラブから発生した日本語のヒップホップだったんじゃないかな」「スクラッチもヒロシとK.U.D.O.とか数人くらいしかできなかったと思う」等と話している[40]。いとうのラップを今日音源で確認できるのは1985年12月21日リリースされたアルバム『業界くん物語』となる[26]。いとうは「日本語ラップは80年代後半に生まれたもの」と述べている[39]。1980年代半ばから藤原ヒロシらがラップに取り組み[17]、近田春夫は1986年にビートに乗せてしゃべりまくるラップを始めて[41]、「日本語はロックに向かない」との定説に挑戦した[41]。
アメリカではパブリック・エネミー、エリックb&ラキームといったヒップホップ・グループが続々登場し、エアロスミスのシングル「ウォーク・ディス・ウェイ」をヒップホップ・グループ・Run-D.M.C.がカバー、1986年7月4日にシングルリリースして世界的に大ヒットした[出典 43]。Run-D.M.C.はこの年に来日している[25]。1986年に日本で初めてのヒップホップ専門のクラブ「HIP HOP」が渋谷にオープンした[25]。同店の当時のDJZOLA、こと長峰弘樹は「当時のヒップホップといっても一般的には馴染みが薄く、ジャンルとしても確立されたものではありませんでしたが、Run-D.M.C.の『ウォーク・ディス・ウェイ』のヒットにより注目を集め始めた頃でした。