磯部涼は「日本で最初にラップ・ミュージックの要素をアレンジに取り入れたのは『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』。その後1980年代前半までは同曲と同傾向の歌謡ラップが数多く制作された」と論じている[28]。いとうせいこうも「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』はラップ」と話している[29]。テクノを得意とする音楽ライター・四方宏明は「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』は、元祖日本語ラップでもあり、お笑いテクノの元祖でもある」等と論じている[27]。
「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」に続く日本のラップ曲は、1981年3月21日にリリースされたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)5枚目のアルバム『BGM』に収録された「RAP PHENOMENA/ラップ現象」(作詞:細野晴臣、ピーター・バラカン、作曲:細野晴臣)である[25]。ラップ現象とラップをかけた言葉遊びのような歌詞ではあるが、日本のラップで曲名に「ラップ」が使用された最初の楽曲。ただこの曲は細野の作詞をピーター・バラカンが英訳したものを細野自身が全編英語でラップしており、日本(語)のラップではない[25]。メロディも本格的なテクノサウンドである。
山田邦子は1981年12月5日発売のシングル「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」(作詞:山田邦子、作曲:渡辺直樹)と[出典 33]、1982年12月5日発売のセカンドアルバム『贅沢者』に収録の「哲学しよう」(作詞:山田邦子、作曲:細野晴臣)でラップを披露している[26]。
日本の事典・用語辞典で「ラップ」という言葉が紹介されたのは『現代用語の基礎知識(1984年版)』が最初[3]。執筆は中村とうようで、ラップを「1970年代の終わりから82年にかけてニューヨークで大流行したファンク・サウンド。と言っても実はこれはメロディのないシャベリ(ナレーション)で、ディスコ・ビートに乗って語呂のいい言葉をリズミカルにポンポンとしゃべりまくる。シュガーヒル・ギャング、グランドマスター・フラッシュなどがラップのレコードを大ヒットさせた。ラップをやる人をラッパーと呼ぶ」と書かれている(原文ママ)[3]。中村はラップは、ファンクやディスコミュージックからの派生と解釈していたものと見られる。この書は1984年1月1日発行のため、「ラップ」という言葉が音楽関係者の間で認知されたのは1983年頃と考えられる。
1970年代以前の日本の曲の中にもラップのような事例もあるが[出典 34]、日本には昔から「五七調」や「阿呆陀羅経」「オッペケペー節」、トニー谷や、早口言葉のようなラップに似たリズムを持つ言葉遊びのようなものがあり[出典 35]、ラップの起源については諸説有るが、一般的に1970年代後半にニューヨークで生まれ[出典 36]、商業的にも初めて成功を納めたラップと言われるシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」のリリースが1979年9月16日であり[出典 37]、前述のように70年代のラップはアメリカでも音源がほとんどないとされ[出典 38]、ラップはすぐにはアメリカでも市民権を得られなかったとされることから[出典 39]、これ以前の日本に海外のラップの影響を受けたラップがあったとは考えにくい[24]。音楽ライター・二木信は「ラップは1980年代初頭にアメリカのNYから日本に輸入されたもの」と述べている[33]。
1980年代以降、欧米ではラップをフィーチャーしたヒット曲が続々生まれた[31]。
1984年3月25日発売のスーパー・エキセントリック・シアターのアルバム『THE ART OF NIPPONOMICS』に収録された「BEAT THE RAP」(作詞:高橋幸宏、ピーターバラカン、SET、作曲・編曲:高橋幸宏)は、明らかにラップミュージックを意識して制作されていると評価される[26]。佐野元春は1984年6月21日リリースのシングル「COMPLICATION SHAKEDOWN」、11月21日リリースのシングル「NEW AGE」でラップへの接近を試み[出典 40]、吉幾三がアメリカのラップを参考にして制作した「俺ら東京さ行ぐだ」は、1984年11月25日にリリースされ、オリコンシングルチャート4位のヒットを記録した[出典 41]。