ラップ
[Wikipedia|▼Menu]
出演は宇多丸RHYMESTER)、高橋芳朗、DJ YANATAKE(DJ・ディレクター・音楽ライター)、渡辺志保(音楽ライター)、ゲスト:いとうせいこう、Bose(スチャダラパー)、Zeebra漢 a.k.a. GAMIBAD HOP[出典 11]、日米のラップ史40年が紐解かれ、書籍化もされている[出典 12]。まずラップの前段階としてヒップホップがあり、ヒップホップ発祥の地は、ニューヨークウエスト・ブロンクスのモーリスハイツ地区セジウィック通り1520番地で、ここはニューヨーク市の史跡保存局によって公式に「ヒップホップ発祥の地」として認定されているという[出典 13]ジャマイカからの移民クール・ハークがここで曲のドラムの間奏部分を繋げてブレイクビーツという技術を発明し[出典 14]、当初は同地区の公営住宅の中の娯楽室で開催されたパーティでそれが演奏され、若者がそれに合わせて踊った[出典 15]。さらに客を煽るため、クール・ハークはMCを雇い、MCがマイクを持ち、ユーモアを交えたりリズミカルな喋りで客を沸かした[出典 16]。これがラップの誕生[出典 17]。クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュアフリカ・バンバータが初期のヒップホップDJ三強が技術を改良[出典 18]。当時はあくまでパーティという感覚で音源化するという発想はなく、レコードはなく、パーティの様子を録ったカセットテープが出回った[出典 19]。これに「ラップが今、若者に流行ってるらしいから、レコードを出せば儲かるんじゃない」と発想したソウルシンガー・シルヴィア・ロビンソンが、ラップが出来そうなピザ屋で働いている連中とかを適当に集めて作ったのがシュガーヒル・ギャングで[出典 20]、彼らの1979年9月16日リリースのシングル 「Rapper's Delight」が世界で初めてのヒップホップ/ラップのレコードの大ヒット曲になった[出典 21]

ヒップホップの起源は前述のように比較的明らかとされ[13]、クール・ハークこと、本名:クライブ・キャンベル発祥である[13]ジャマイカキングストン生まれのクライブが[13]、家族でアメリカニューヨークのブロンクスに移り住んでからその歴史がスタートした[13]。重要なのはジャマイカキングストンでは巨大なスピーカーが積み上がったサウンド・システム、ソマーセット・レインからスカレゲエが大音量で流れ、それに合わせて自分のなどを朗読したり即興の語りを披露したりするスタイルが日常的に行われていたことで[13]、これは、ジャマイカではトースティングと呼ばれる一つの音楽スタイルになっていた[13]。12歳だったクライブの耳には、キングストンの音響システムとトースティングの体験がくっきりと脳裏に残っていた[13]。アメリカ移住後にブロンクスのラジオから流れてくるロックディスコのDJカズン・ブルージーやウルフマン・ジャックなどにも影響を受けた[13]。クライブ・キャンベルは15歳でブロンクスでハウス・パーティを定期的に開催し、まだ誰にも知られていない存在ながら、DJクール・ハークを名乗り自らDJを始めた[13]。DJクール・ハークのパーティーの評判は次第にブロンクス中に広まり、やがてジャマイカの移民仲間であるコーク・ラ・ロック、DJクラーク・ケントの3人で「ハーキュロイズ」を結成[13]。ジャマイカで体験したサウンドシステムをベースに、曲中のリズム・セッションやパーカッションだけのブレイクの部分を「メリーゴーラウンド」と呼ばれるテクニックで延々と引き延ばした[13]。同じレコードを2枚用意して、ブレイク部分を繰り返し繋ぐ手法[13]。こうしてブレイクが何分も続くことでダンサーたちは興奮し、踊り狂う[13]。1976年頃にこのブレイク部分になると飛び込んできて踊りまくるアクロバティックなダンサーたちをクール・ハークがブレイク・ボーイズ、略してBボーイズと呼んだ。これがブレイクダンス(breakdancing,breakin')の誕生となる[13]

ヒップホップ/ラップ/ブレイクダンスは全て1970年代に生まれたものであるが、アメリカではラップの先駆曲はコメディアン・ピグミート・マーカムによる1968年の「Here Comes the Judge」と評価されているという[13]。またラップミュージックの基本的リズムパターンを生み出したのはファンクの元祖・ジェームス・ブラウンという見方もある[13]。ブラウンの後継世代によるPファンクは、ブラウンとラップを繋ぐ役割を果たした[13]。ラップミュージックはリズムビートの部分で多くをファンクのグループに依っている[13]デ・ラ・ソウルスヌープ・ドギー・ドッグドクター・ドレーなど、極めて多くのヒップホップミュージシャンがそのサウンドをカバーリミックスする[13]
日本におけるラップ日本のヒップホップについては「日本のヒップホップ」を参照
歴史

1980年代初頭はまだアメリカでもヒップホップ/ラップは、ニューヨークのごく一部にイケてる人だけが知っている音楽と考えられ[出典 22]、ニューヨーク以外の人以外は全く知らない状態のため、1970年代以前の日本におけるヒップホップ/ラップについては記録はない[出典 23]

日本に輸入されるのはだいぶ後になってからで[出典 24]スネークマンショーが1981年2月21日にリリースしたアルバムスネークマン・ショー』に収録された「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」(作詞:スネークマン・ショー 作曲:細野晴臣)は、非常に早い日本語ラップの事例である[出典 25]。制作経緯については、スネークマンショーのメンバーだった小林克也は「(何年だったかは忘れたが)六本木を歩いていたら、あるスタッフに呼びとめられて、スクラッチとラップを聴かされた、アーティスト名は忘れたが、それを聴いて衝撃受けた、これで世界が変わるかもしれないと思うほどで、パンクにやられたときと同じような衝撃を感じた。それですぐ、これをやりたいなとブロンディの『ラプチュアー』のアナログ盤をいじって「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を作り、『スネークマン・ショー』に収録した」と話している[出典 26]宇多丸は「小林克也さんに直接お話を聞いたときに得た証言があります。シュガーヒル・ギャングの『Rapper's Delight』がアメリカで1979年にリリースされて大ヒットしているときに、それをニューヨークで聴いた桑原茂一さんが、『番組でもこんな感じの曲をやろう!』と。当時はまだサンプラーもないですから、『Rapper’s Delight』の元となった、シックの『Good Times』の、頭の「ドンドンドンドン……♪」の部分を、テープを切り貼りして、輪っかを作ってトラックのループとする擬似的なサンプリングループみたいな制作で、桑原さんがニューヨークから帰ってきてすぐ、1980年初頭くらい」と聞いた」と述べている[出典 27]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:144 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef