ラストエンペラー
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西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後に建国された中華人民共和国での「戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、中華民国の下での皇帝と、日本の協力を得て満洲国の皇帝になり、退位しソビエト連邦に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描く。

歴史的事実には重きをおいておらず、大胆な創作が随所に盛り込まれている。清朝及び満洲国を舞台にした映画であるが、中国系アメリカ人俳優が主なキャストを占めており、主な台詞は英語であるなど、独自の脚色も多い。

故宮で世界初のロケーションを行われたことが公開前から大きな話題を呼んだ。観光名所として一日5万人が訪れる故宮を、中国共産党政府の全面協力により数週間借り切って撮影が行われた。色彩感覚豊かなベルトルッチの映像美は圧巻の一語に尽きると高い評価を受けた。特に故宮太和殿での即位式の荘厳、華麗なシーンは映画史に残る有名なシーンとなった。

1987年第2回東京国際映画祭クロージング上映で初公開され[3]第60回アカデミー賞作品賞[11]並びに第45回ゴールデン・グローブ賞 ドラマ部門作品賞を受賞した[12]。一方で、他にも中華人民共和国で同じテーマの映画テレビドラマが作られた上、当時は同国政府による外国映画の上映・放映規制が現在より厳しかったこともあり、アカデミー賞作品賞を受賞した作品であるにもかかわらず、映画の舞台となった中華人民共和国での知名度は高くない。

後に219分のオリジナル全長版もVHSDVDブルーレイのソフトで発表された。2011年からは2年をかけて劇場公開版フィルムを全面修復。2013年第66回カンヌ国際映画祭クラシック部門で「3D版」として上映され[5][13]、イタリア公開[4]を経てブルーレイ化された。2015年の第18回上海国際映画祭においても、3D版が中国で初公開された[6]2023年1月6日には日本で「劇場公開版 4Kレストア」が公開され[14][2][注 1]、イギリスで2月13日ドルビービジョンのHDR技術を採用した4K Ultra HDブルーレイが発売された[17]
あらすじ作中、溥儀が自転車で走った場所

1950年第二次世界大戦の終結による満洲国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルビン駅の構内。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返すなか、列から外れた1人の男が洗面所自殺を試みる。その男は、監視人の手により一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。この男こそ、清朝最後の皇帝にして満洲国の皇帝であり、紀元前以来から続く中国王朝の最後の皇帝たる「ラスト・エンペラー」、すなわち、愛新覚羅溥儀である。

1908年11月14日、北京。清朝第11代皇帝・光緒帝の崩御に伴い、長きに渡って清朝の最高実力者として君臨してきた西太后は溥儀を紫禁城へ呼び出す。事態を察知した溥儀の実母福晋幼蘭は、乳母のアーモに溥儀を託す。物々しい様子の宮中で、溥儀は動じることなく、無邪気に「お家に帰れる?」と繰り返すばかりであった。瀕死の西太后は、溥儀を皇帝に指名して崩御する。即位式の日、家臣たちが三跪九叩頭の礼で新皇帝に拝礼する最中、溥儀はコオロギの鳴き声を追って列中を歩き回る。そして居場所を突き止めると、コオロギを入れ物ごと教育係の陳宝?から譲り受ける。

再び1950年、一命を取り留めた溥儀は、中華人民共和国の戦犯として撫順政治犯収容所撫順戦犯管理所)に送られる。収容所長は溥儀を助けた男だった。そこで待っていたのは「戦犯」としての自己批判の強要や要人の立場を奪われた生活習慣だった。そこで溥儀は強い口調で詰め寄る尋問官や厳しくも善良な所長を相手に、孤独で不遇だった私生活を「すべては、(空虚な)儀式でしかなかった」と振り返り、過去を回想していく。

収容所では、実弟の溥傑と再会する。紫禁城を出ることが認められず、宦官ら大人にかしずかれて育った溥儀にとって、溥傑は初めて出会った同世代の子供であり、大切な存在となった。しかしながら、乳母のアーモからは依然として乳離れできず、溥傑の目を盗んでアーモの乳房に顔をうずめる。その様子を、先帝の妃(太妃)たちが見ていた。ある日、溥傑が皇帝しか許されないはずの黄色い衣服を着ていたことから、兄弟喧嘩となる。溥傑は「兄上は皇帝じゃない」と言い、すでに辮髪もしない洋服の新しい「皇帝」がいると話す。溥儀は皇帝である証明に、宦官に命令して墨汁を飲ませるが、溥傑は自動車に乗った大総統袁世凱が、新たな皇帝として君臨する姿を見せる。ショックを受け、宦官らに問いただすが誰も事実を言おうとせず、ようやく教育係の陳から「紫禁城の外では皇帝ではないが、紫禁城の中では皇帝である」と説明を受ける。そしてアーモは太妃たちによって紫禁城を追放され、溥儀は強引に駕籠に乗せられた彼女を必死で追うが、見失ってしまう。アーモは乳母以上に、初恋の女性だった。

再び1950年代、収容所所長は溥儀の過去を知るため、家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが記した『紫禁城の黄昏[注 2]を開く。学生のデモ(五四運動)で物々しい北京市街を経て、ジョンストンは紫禁城へ赴く。城内は城外と打って変わって旧態依然としており、伝統や慣習がそのまま息づいていた。10代になった溥儀は知的好奇心旺盛で、盛んに城外へ出たがっていた。ジョンストンは家庭教師として、勉強だけでなく城外の知識や常識を溥儀に与え、溥儀にとって信頼できる師となる。1921年、溥儀の実母が逝去し(アヘンを飲み込んでの自殺)、溥儀は母や弟に会おうと自転車で城外へ出ようとするが、衛兵に妨げられる。さらに城外へ出ようと屋根に上った際、視力の低下に気づき、西洋人の医師から「眼鏡をかけないと失明する」と診断される。太妃や内務府大臣は反対するが、ジョンストンは眼鏡を認めないなら、紫禁城の腐敗を新聞を通じて世界に伝えると言い返す。

眼鏡を認められた溥儀が最初に見たものは、お妃候補たちの写真であった。しかし溥儀の意向は通らず、太妃たちによって17歳の婉容が皇后に、12歳の文?が淑妃(第2皇妃、側室)に選ばれる。古式ゆかしい婚礼が行われ、婉容と文?は友情を結ぶ。溥儀は婉容を古風な女だと思っていたが、実際には溥儀の理想通り、外国語が話せてダンスが踊れる「モダンな妻」であった。溥儀は2人でオックスフォードへ留学したいという夢を語り、婉容も彼を気に入り好きになりそうだと、互いに好印象を抱く。

再び1950年代、溥儀は日本と接近した経緯と理由を激しく詰問される。成長した溥儀は、もはや城外への脱出ではなく改革を志すようになっていた。その始まりは辮髪の断髪と、宦官らの不正(宝物の盗難)を露呈させるための美術品目録作成であった。ある夜、不安を感じた婉容は自ら溥儀の寝所を訪れる。さらに文?も現れ、3人で仲睦まじく過ごすが、屋外では炎が燃え盛っていた。一部の宦官らが、証拠隠滅のため宝物殿に放火したのであった。溥儀は激怒し、共和国軍の支援も得て1000名以上の宦官を全て追放する。日本への接近が決定的となったのは1924年、北京政変だった。溥儀を対象としたクーデターで、溥儀ら一族は1時間以内の退去を命じられる。ついに溥儀は紫禁城を離れることとなった。ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局溥儀に手を差し伸べたのは、同世代の天皇もおり親近感もあった大日本帝国のみだった。

日本の庇護下、天津での生活は、軍閥との交渉はあったものの、総じて楽しいものだった。溥儀と婉容は「ヘンリーとエリザベス」となり、社交界でも注目の的だった。一方、文?は紫禁城の外では(社会的に)妻として認められず、孤独な思いから離婚を望んでいた。ダンスパーティーの最中、?介石上海制圧のニュースが伝えられ、居合わせた欧米人らが拍手喝采する中、輪から外れた溥儀らに甘粕正彦が「日本公使館へお越し下さい」と誘いかける。文?は車中で離婚の意思を告白し、混乱の中ついに出奔する。文繍と入れ替わりに、友を失った婉容の護衛のため「東洋の宝石」(eastern jewel)こと川島芳子が現れる。彼女は溥儀の遠縁であり、あらゆる情報に通じていた。彼女は清朝の陵墓(清東陵)が国民党により盗掘され、西太后の遺体が切り刻まれたというニュースをもたらし、溥儀を激しく憤慨させる。


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