ラジコン
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[9] 1904年には発明家のジャック・キッチンがウィンダーミア湖の蒸気船バット号に自分の作った実験的な無線操縦装置を積んで操縦した。

1909年にはフランスの発明家ガベが「Torpille Radio-Automatique」と名づけた無線操縦式魚雷を実演した。[10]1917年にはイギリス陸軍航空隊実験部門のアーチボルド・ロウが、初めて航空機の無線操縦飛行を成功させた。

1920年代には多様な無線操縦船舶が標的として海軍の射撃演習に使用された。1922年にアメリカ海軍の戦艦アイオワが世界初の無線操縦装置を備えた標的艦になった。[11] これにはハモンドが開発した無線操縦装置が設置され、1923年3月の射撃演習によって沈むまで使用された。

ソ連の赤軍は1930年代にフィンランドとの冬戦争でテレタンクと呼ばれる無線制御の無人戦車を使用し、第二次世界大戦開始時には少なくとも2個大隊を編成していた。テレタンクは別の指揮戦車から500?1,500mの距離で操縦でき、この2両が1個の遠隔機械的グループを構成した。赤軍にはさらに遠隔操作沿岸警備艇(カッター)や実験的遠隔操作飛行機が存在した。同じ1930年代、イギリスでは無線操縦式のタイガーモスであるQueen Bee艦隊の射撃訓練のために開発した。Queen Beeは後に、さらに高性能の標的機として専用に開発された類似の名称のQueen Waspに交代した。

ドイツ軍も大戦中に無線誘導弾フリッツXヘンシェル Hs 293、フンクレンクパンツァー無線誘導戦車を実戦に投入し、フリッツXはイタリアの戦艦「ローマ」を撃沈するなどの戦果を上げた。

日本でも無線操縦式の魚雷「無敵魚雷」の実験から、1937年に無線操縦の標的艦に改造された「攝津[12]が実際に運用されたり、1930年には日比谷公園無線操縦戦車長山号の公開実験がおこなわれた記録[13][14]があり、1944年にはイ号一型乙無線誘導弾イ号一型甲無線誘導弾も開発された。

同時期、趣味の分野での無線操縦装置としては、1937年朝日屋から出版されていた科学雑誌、「科学と模型」誌に工作少年を対象に火花送信機コヒーラ検波器を使用した科学模型の製作記事が掲載されている。
第二次世界大戦での軍事利用

無線操縦は第二次世界大戦中にさらに発達し、その主役はドイツで、多数のミサイル計画で使用された。ドイツの最大の努力は、攻撃が困難かつ危険であった艦船を攻撃するための無線操縦式ミサイルと滑空爆弾に向けられた。しかし戦争末期にはドイツ空軍も連合軍爆撃機への攻撃に同様の問題を抱え、多数の指令誘導式対空ミサイルを開発したが、就役したものはなかった。

ドイツ空軍の[対艦船用の]システムは主にテレフンケン製のFunk-Gerat (またはFuG) 203 Kehl 2軸式送信機(ジョイスティック1本を備える)を指令航空機に搭載し、同じくテレフンケンのFuG 230 Strasburg 受信機を被誘導兵器に搭載するもので、無動力の装甲対艦爆弾であるフリッツXや動力式のHs 293誘導爆弾に使われたが、その効果はイギリスによる無線信号妨害(ジャミング)で大きく低下し、後にはアメリカ軍による支援も加わった。ドイツが初期に成功を収めた後、イギリスは多数のコマンド部隊を送りこんでミサイルの無線機を集めさせた。それから妨害装置をイギリスの艦艇に備えるようになると、ドイツの兵器はまったく「役立たずになった」。これを悟ったドイツの開発チームは有線誘導に移行したが、この種のシステムが実戦使用できるようになった頃には戦場はすでにフランス国内に移っていた。

ドイツ海軍は1944年から、爆薬を満載して敵艦船を攻撃する無線操縦のモーターボート、FL-Boote (ferngelenkte Sprengboote)を運用した。

イギリスとアメリカ両国も、ドイツ国内の目標周辺に配備された大規模な対空砲陣地を避けるために、類似の用途の無線操縦装置を開発した。しかしこれらのシステムの中に実戦使用に耐えるものはなく、アメリカ軍での大規模な使用例であるアフロディーテ作戦(英語版)では、目標よりも使う側に多くの危険をもたらす始末だった。ただしアメリカ軍のAZON 誘導爆弾は欧州戦線と中国ビルマインド戦線でそれなりの効果を上げた。

この時代の無線操縦装置は全体的に電気機械的な構成で、小型の金属製の「指」つまり異なる共振周波数特性の「リード」を備え、それぞれが特定の周波数を受信すると多数の継電器のひとつを作動させる仕組みだった。そして継電器が多様なアクチュエータを作動させ、それがミサイルの制御舵面を動かした。制御装置の無線送信機は、制御スティックの動きに応じて異なる周波数を送信した。これらは一般にON/OFF信号だった。ただしアメリカ軍のAzon誘導弾の舵面の制御に使われた無線装置は完全に比例(プロポーショナル)制御で、エルロンは爆弾内のジャイロスコープだけで制御され、ローリングを防いだ。

これらのシステムは、半導体の採用によって無線制御が大幅に簡略化される1960年代まで幅広く用いられた。リード式継電器を使用した電気機械式システムは類似の電子回路に置き換えられ、小型化の進行によって同じサイズの中でより多くの制御信号を扱えるようになった。初期の制御装置では振幅変調を利用して2または3チャンネルがせいぜいであったが、現代の装置では周波数変調の利用により20以上のチャンネルを使用できる。
戦後

戦後は玩具としてもそれらの技術が波及した。商品化の先鞭となったのは1955年に増田屋斎藤貿易(現在の増田屋コーポレーション)がホビー用としてラジコンバスであった。当時、高価だったトランジスタ真空管を使用せず、火花送信機コヒーラ検波器を使用したが、それでも当時の所得水準から判断するとかなりの高額であり、主に輸出され、外貨獲得に貢献した。当時、日本国内での電波法の認可は順調に取れたが、米国では認可に時間がかかり、翌年の夏に発売された。


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