だった。波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wだった。当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聞こえなかった。
元々は3月1日に放送を開始する予定だったが、購入する予定だった、当時日本に1台しかないウェスタン・エレクトリック(WE)社製の放送用送信機が、前年12月に同じく設立準備中の社団法人大阪放送局(JOBK:現在のNHK大阪放送局、略称:BK)に買い取られてしまった。そこで東京放送局は、東京市電気局電気研究所が放送実施のために購入したゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省の検査で「放送設備が未完成のため3月1日の放送開始は時期尚早」と判断された。既に3月1日から放送を開始すると発表しており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験送信」の名義で逓信省の許可を受け、何とか3月1日から放送を開始することができた。
3週間の試験放送の後、逓信省の検査に合格し、3月22日に仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し、7月12日に東京府東京市芝区(現在の東京都港区)の愛宕山からの本放送が開始された。これには改めて購入した出力1kWのWE社製送信機を使用した。
大阪放送局はその年の6月1日から仮放送を出力500Wで開始した。
さらに、社団法人名古屋放送局(JOCK:現在のNHK名古屋放送局、略称:CK)も同年7月15日に、出力1kWのマルコーニ社製送信機を使用して放送を開始した。
1925年、ラジオ聴取契約者は東京13万1373、大阪4万7942、名古屋1万4290件、受信機は鉱石式10円、真空管式120円[25]。
1945年まで1920年代末のラジオ放送収録風景。右は粟島すみ子(中央)ら松竹蒲田撮影所の映画俳優たちによるラジオドラマ、左は演奏中の新橋芸者たち。
社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。これは実質的には政府機関的な性格を持っていた。「全国鉱石化」(日本全国のどこでも鉱石受信機によるラジオ聴取を可能とするインフラの整備)を目標[注 10]に日本各地に放送局を開設したほか、外地の南樺太(豊原放送局)や南洋群島(パラオ放送局)にも置局した。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、日本放送協会の番組を多く中継した。
1927年8月、ラジオで全国中等学校優勝野球大会が中継された(初のスポーツ中継)[26]。
1928年11月には昭和天皇の即位の礼が全国中継された(初の本格的な全国ネット放送)[26]。また、1930年2月にはロンドン軍縮会議の中継が行われた(初の国際中継)[26]。
受信機としては、交流商用電源や大容量電池によって作動する真空管を使ったものが登場し、鉱石式のイヤホンに代わって、スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになる。ラジオ受信機自体は国内メーカーによって生産が可能となった。
アマチュアによる受信機自作も当時から趣味の一ジャンルとして広まり始めていた。雑誌『無線と実験』に1930年、匿名男性が寄稿した「ラジオをつくる話」は、岡本次雄が当時のアマチュアと東京のラジオ商の様子を見事に描いているとして『アマチュアのラジオ技術史』(1963)に収録した。
ラジオ聴取契約者は1931年に100万を突破した[25]。聴取世帯数は1932年2月には100万、1935年2月には200万、1939年1月には400万を突破[26]。