日本において「パーソナリティ」を最初に名乗った人物および事例については諸説あるが、アメリカのラジオ番組に倣ったという点では共通している。またすべてバンカーの訪日と前後している。 各放送局によってさまざまな社内呼称がある。J-WAVEにおいてのナビゲーター、南海放送のプレゼンターなど。
オーナー説
1964年に放送開始したTBSラジオの番組『オーナー』における、3人の日替わり出演者(芥川也寸志、小島正雄、三國一朗)は、従来のディスクジョッキーや司会以上に個性があるという意味で、「パーソナリティ」と呼称された。社史によると、米国の事例から導入したという[4]。
山谷親平説
1965年に『テレフォン人生相談』(ニッポン放送)で山谷親平が、毎回の放送開始時に他者のアナウンスによって「パーソナリティは山谷親平さんです」と紹介された[5]のが最初だという。このときの山谷は自らパーソナリティを名乗ってはいない[5]とする説もある。一方、福井放送アナウンサーの重盛政史によると、同局で1956年から1963年まで担当した『お早う皆さん』の時点で「すでにパーソナリティーと名乗っていた[6]」としている。重盛によれば、福井放送の当時の社長と山谷が米国の放送業界を視察した際に仕入れた言葉だという[6]。いずれにせよ、山谷は「実質的な意味での日本初のパーソナリティであったのは確かだ[5]」と高く評価されている。
オールナイトニッポン説
ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』の喋り手は、1967年の番組開始当初、ディスクジョッキーの略称の「DJ」と称していたが(オールナイトニッポン#番組黎明期参照)、1969年頃には「パーソナリティ」を名乗るようになったという[7]。
中村鋭一説
朝日放送の社史『朝日放送の50年』によれば、1971年に開始した『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(ABCラジオ)で、中村鋭一が名乗ったのが最初とされる。中村は、当時米国で「パーソナリティ・プログラム」が人気を博していたことを知った朝日放送の上司が「日本でもパーソナリティ・プログラムといえるような番組をやりたい」と同番組を企画し、当時朝日新聞への出向から戻ったばかりの自身に白羽の矢を立てた、とインタビューに答えている[5]。
役割
リスナー(聴取者)が番組宛てに寄せた投稿を放送の中で紹介する
様々な話題のフリートークを行う
番組内に独立したコーナーがある場合に、その案内を行う
番組に登場したゲストの話を聞く
別の呼称
脚注[脚注の使い方]^ a b c NHK 編『放送の五十年 昭和とともに
^ Field, Shelly. 2010. "Career Opportunities in Radio". Infobase Publishing. pp.2. ISBN 978-1-4381-1084-4 .
^ 『朝日放送の50年』(2000年(平成12年))
^ 東京放送編『TBS50年史』 東京放送、2002年(平成14年)1月 p.212
^ a b c d 『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』(ニッポン放送、1989年1月1日)[信頼性要検証]
^ a b 重盛政史のべしゃり寿司 2007年05月25日のネタ「山谷親平さん(その2)」(キャッシュ) 福井放送、2007年5月25日
^ 村野まさよし『深夜放送がボクらの先生だった』(実業之日本社)
関連項目
アナウンサー
音楽評論家
ラジオ情報誌
ディスクジョッキー
典拠管理データベース: 国立図書館
⇒イスラエル
アメリカ
チェコ
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