ラシン・クルブ
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アマチュア時代には、アルゼンチンサッカー協会 (AFA) とウルグアイサッカー協会 (AUF) が共同で組織したコパ・アルダオコパ・デ・オノール・クセニエールでも優勝している[2]
歴史
創設期青色と白色のユニフォームを着用していた1906年のチーム

1901年5月12日、国立中央カレッジの学生グループがFCバラカス・アル・スド (Football Club Barracas al Sud) を設立し、ペドロ・ウェルネルが初代会長に就任した。しかし、FCバラカス・アル・スド設立、1周年を前に、ユニフォームの色に関して内部対立が起こった。会長側メンバーは黄色と黒の縦縞を希望し、残りの多くのメンバーは赤色を希望した。そして多数派であった反会長派である赤色支持のメンバーが離脱をし、赤色のユニフォームを着用するコロラドス・ウニードス (Colorados Unidos) が設立された。しかし、この分裂状態が長く続くことはなかった。1903年3月25日、ブエノスアイレスのアシエンダ市場で会合が行われて、両クラブの分裂解消が決定され統合することとなった。この際に出席者のひとりエルマン・ビダジャックがフランスのスポーツ雑誌を手にしていて、そこにはフランスのフットボール・クラブ、ラシン・パリが1902年に優勝した記事があった。ラシン・パリは当時、フランスでかなりの強豪チームであった。彼がこれを仲間達に見せると、喝采を持って受け入れられ、そこから、チーム名をラシン・クラブ・デ・アベジャネーダに改名することが決定された[3][4]。そしてユニフォームに関しては、ラシン・パリのユニフォームは当時から水色と白の横縞であったが、ラシン・クラブのメンバーはユニフォームのデザインまでラシン・パリと同じにすることは止めた。ラシン・クラブの最初期のユニフォームは上下ともに白色であったが、1904年7月25日に会長側のメンバーが推していた黄色と黒色の縦縞のユニフォームを着用することが決定された。しかし、このデザインはウルグアイのCAペニャロールと同じということで、デビューして1週間で廃止となった。その後、ユニフォームはピンクと青の格子のデザインになり、それから1908年に青地に白の太い横縞のデザインへと移り変わっていった。しかし、1910年に、アルゼンチンの独立100周年を記念して、ユニフォームカラ―を国旗と同じ色の水色と白色に変更することにした。そして、ラシン・パリの横縞ではなく、縦縞のデザインにすることを決定し、このデザインは現在に至っている。

1905年にアルゼンチンサッカー協会 (AFA) の会員となり、アルゼンチンサッカーリーグの2部リーグでプレーした。1908年12月13日、プリメーラ・ディビシオン(1部)昇格をかけてCAリーベル・プレートと対戦。試合はリーベルが2-1で勝利した。しかし、試合後、ラシンは「リーベルのサポーターが試合中に何度もピッチに飛び降りた」ことを理由にAFAに試合の無効を訴えた。AFAはこの要求を受け入れて再試合が行われたが、再試合ではリーベルがラシンを7-1で葬り去って昇格を決めた。1909年にも昇格プレーオフに出場したが、今度はクラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・ブエノスアイレス(スペイン語版)に敗れた。そして、1910年、4,000人の観客の前でボカ・ジュニアーズを下し、ついにプリメーラ昇格を果たした。この試合ではフェルナンデス、セミナリオ、アジャン、ウィンネ、フアン・オアコ、アンヘル・ベトゥラール、オジャルサバル、アルベルト・オアコ、フィルポ、フレルス、フアン・ペリネッティが先発メンバーに名を連ね、フレルスとA・オアコが得点した。
ラ・アカデミアリーグ初優勝を飾った1913年のチーム

1911年5月7日にプリメーラ・ディビシオンでの初試合を行い、CAサン・イシドロに1-1で引き分けた。この試合でカルロス・スカローネがクラブ初得点を挙げている。初勝利は6月18日のキルメスAC戦 (2-1) であった。このシーズンには伝説的なクラブであるアルムニACから3-1の勝利を挙げているが、この2ヶ月後にはベルグラーノのチームに1-5で敗れた。アルムニはこのシーズン終了後に解散したため、敗れた試合が両者の最後の対戦となった[5]。1913年シーズンはリーベルと並んで首位でレギュラーシーズンを終えた。プレーオフ初戦ではリーベルを3-0で下し、プレーオフ決勝ではサン・イシドロを2-0で破ってリーグ初優勝を飾った。この時のラシンにはA・オアコ、マルコベッチオ、ペリネッティ、オチョアなどの名選手が在籍していた。1914年シーズンには12試合を42得点7失点の好成績で終え、2位のエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタを抑えて2連覇を達成した。 20試合で58得点を挙げて優勝した1917年のチーム

1915年シーズンは24試合で95得点5失点という傑出した成績を残し[6]、プレーオフ決勝では2年前と同じくサン・イシドロと顔を合わせたが、1-0で再びサン・イシドロを破って3連覇を果たした。この試合はローカルライバルであるCAインデペンディエンテのスタジアムで行われ、ラシンの先発メンバーはアルドゥイーノ、プレスタ、レジェス、ベトゥラール、オラサール、ペペ、カナベリー、A・オアコ、マルコベッチオ(決勝点を挙げた)、オスピタル、フアン・ペリネッティであった。1916年シーズンには39得点10失点を記録し、21試合で勝ち点34を獲得。2位のCAプラテンセは勝ち点30に留まり、リーグ4連覇を果たした。1917年シーズンには20試合で58得点4失点という圧倒的な成績を残し、勝ち点35でリーグ5連覇を果たした。2位のリーベルは勝ち点30であった。1918年シーズンは49得点9失点であり、19戦無敗で6連覇を果たした。1919年には反体制派のリーグであるアソシアシオン・アマテウルス・デ・フットボールに移り、23試合を無敗で終えて7連覇を果たした。43得点10失点で勝ち点26を獲得した。2位は勝ち点20のCAベレス・サルスフィエルドであった[7]。8連覇を目指した1920年シーズンはリーベルに勝ち点2及ばず2位に終わった。1921年シーズンは73得点16失点を記録し、38試合で勝ち点66を積み上げて王者に返り咲いた。アマチュア時代最後のリーグ優勝を果たした1925年のチーム

1925年には24試合で勝ち点39を記録し、アマチュアリーグ時代最後のリーグ優勝を飾った。ラシンは全国リーグ創設後の22年間で9回の優勝(7連覇を含む)を果たしており、この驚くべき成績により他チームからフットボールのお手本と称され、アルゼンチンサッカー界における「ラ・アカデミア」(学院)というニックネームを授かった。リーグタイトルの他には、コパ・デ・オノール・ムニシパリダード・デ・ブエノスアイレスで4回(1912年・1913年・1915年・1917年)、コパ・イバルグレンで5回(1913年・1914年・1916年・1917年・1918年)の優勝を果たしている。国際舞台では1913年にコパ・デ・オノール・クセニエールで優勝し、1917年と1918年にはコパ・アルダオで優勝した。アマチュア時代の著名選手にはA・オアコ、アルベルト・マルコベッチオ、ペドロ・オチョア(ドリブルキングの異名を取った)、カルロス・ガルデル、ナタリオ・ペリネッティなどがいる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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