ドゥシャンはプリバツを賞するにあたり、彼にロゴテトの地位を与えるのと共に、その子ラザルにもスタヴィラツ
(英語版)というセルビア宮廷内の官職を与えた。この官職は直訳すると「設置者」という意味で、本来は王の食卓での儀式における役割を担う職であるが、実際にはラザルはその仕事を他の者にゆだねることもできたと考えられている。ともかくスタヴィラツはセルビア宮廷内の官職の末席に位置するものだったが、それでも君主の傍近くに仕えられる非常に名誉な職であった。スタヴィラツになったラザルは、ミリツァという女性と結婚した。後に15世紀前半に作られた系図によれば、ミリツァはセルビア王ヴカン・ネマニッチ(英語版)の曽孫ヴラトコ・ネマニッチ(英語版)の娘であったという。ヴカンは、ネマニッチ朝の祖であり大ジュバンとして1166年から1371年までセルビアを治めたステファン・ネマニャの息子だった。ただ、15世紀以前の文献には、ヴカンの子孫の存在が記録されていない[6]。1355年、47歳ごろだった皇帝ドゥシャンが急死し[7]、その20歳の息子ステファン・ウロシュ5世が跡を継いだ[8]。この新しい皇帝の宮廷でも、ラザルはスタヴィラツとして仕えた[6]。しかしドゥシャンが没したことで、セルビア帝国の各地で分離独立の機運が高まった。まず1359年に南西のエピロスとテッサリアが分離した。北東でも、ブラニチェヴォとクチェヴォ(英語版)を支配するラスティスラリッチ家(英語版)が離反し、ハンガリー王ラヨシュ1世の支配下にはいった。残りの地域は幼いステファン・ウロシュ5世に従い続けていたものの、その中では有力なセルビア貴族たちがより皇帝権から自由になろうとうごめいていた[9]。セルビア帝国(Serbian Empire)の版図(1355年)
こうした分離運動を鎮める力に欠けていたステファン・ウロシュ5世は、名目的に支配を行うだけの小勢力に転落した。彼が頼ったのは、セルビア貴族の中で最も強力なザフムリェ(英語版)のヴォイスラヴ・ヴォイノヴィチ(英語版)だった。彼はかつてドゥシャン帝の宮廷のスタヴィラツから始まり、1363年までに、セルビア中部のルドニク山(英語版)からアドリア海沿いのコナヴレまで、またドリナ川上流部からコソヴォ北部にまで至る広大な領域を支配下に収めていた[9]。ヴォイスラヴに次ぐ地位を占めたのが、バルシッチ(英語版)兄弟(ストラツィミル(英語版)、ジュラジ(英語版)、バルシャ(英語版))だった。彼らはゼタ(現在のモンテネグロの大部分に相当)を支配していた[10]。
1361年、ヴォイスラヴ・ヴォイノヴィチが領土をめぐってラグサ共和国と戦争を始めた[11]。