ラザフォード・オールコック
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^ 当時のイギリスでは、領事は在留イギリス国民の利益を保護する立場にはあるが、「外交官」ではなく、また領事が「大使」「公使」に昇進することも無かった。しかし、オールコックには法的には「全権」が与えられており、実質的には外交官としての役割が期待されていた。オールコックは後に公使に昇進するが、これは領事から公使へ昇進した最初の例であった。
^ 上海には丁度タウンゼント・ハリスが滞在しており、オールコックはここで日本に関する予備知識を得ることができた。
^ 川崎(2012) p.40
^ 幕府が横浜を開港地に決めたのはオルコック来日の3ヶ月も前の4月1日2月28日)であり、突貫工事で横浜居留地を完成させていた。
^ 他国も神奈川に領事館を置いたが、1年後にオランダ領事館が横浜に移転し、結局はイギリス領事館も横浜に移転した。この間、イギリスの商人たちは自己の利益を追求し、全くオールコックに協力しなかったため、立腹して「ヨーロッパの人間の屑」と言い表している。
^ a b The Capital Of The Tycoon Vol I SIR RUTHERFORD ADCOCK
^ 宮永(2005)
^古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とあり、オールコック一行は7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂したらしい。
^日本とイギリスの懸け橋となった“おもてなしの心” <オールコックの碑と愛犬トビーの墓>【熱海市】 - 伊豆新聞 2015/7/9
^ オールコック銘板、大湯へ - 熱海市観光協会 2018/1/26
^ この時の様子は『富士登山と熱海の硫黄温泉訪問』として日本でも出版されている。
^ 江戸帰還の交渉のためのに酒井忠眦が横浜へ派遣され、ラザフォードらは幕府から満足できる回答を得たとして江戸に戻った。が、実際には、オールコックが面子を失わないように江戸へ戻る手配をしたのは、ハリスであった。
^ もっとも、南北戦争の影響もあり、日本に対するアメリカの影響力は急速に低下した。ハリスは翌年4月に帰国し、その後日本における外国勢力の中心は英仏に移った。
^ The Capital Of The Tycoon Vol I by Sir Rutherford Alcock, Chap. XXI.  A MORAL PROBLEM.
^ 横浜鎖港など到底実現不可能なため、フランスと交渉しただけで一行は帰国した。この際フランスとパリ約定を結び、関門海峡の自由通航を保証するとしたが、これも幕府の手では実現できず、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国による下関砲台の占領にいたる。もっとも、この使節の真の目的は井土ヶ谷事件でフランス軍人が殺害されたことに対する謝罪交渉であり、横浜鎖港談判は名目であるとの説もある。
^ 帰国の途次に下関に立ち寄り、長州征討を間近に控えた伊藤博文に会っている。

参考文献

横井勝彦『アジアの海の大英帝国』同文館、1988年(昭和63年)。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-495-85271-9。 

宮永孝「オールコック英公使 : 富士山に登ったヨーロッパ人第一号」『社会志林』、法政大学社会学部学会、2005年3月、ISSN 13445952、hdl:10114/6206。 

川崎晴朗「研究ノート : 明治時代の東京にあった外国公館(2)」『外務省調査月報』第(1)巻2012年度、外務省第一国際情報官室、2012年8月30日、ISSN 0447-3523。 

関連項目

日英関係

太平天国の乱

ロシア軍艦対馬占領事件

上海小刀会蜂起

トーマス・ウェード

アーネスト・サトウ -「一外交官の見た明治維新

タウンゼント・ハリス -「日本滞在記

ハリー・パークス

小林伝吉 - オールコックの通訳

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

外国人による日本論の名著 - 「大君の都」紹介

トビー (犬) - オスのスコティッシュ・テリア。オールコックの愛犬

外部リンク

The Capital Of The Tycoon Vol I
、Vol 2

外交職
先代
(創設) 駐日英国公使
初代:1859 - 1865次代
ハリー・パークス

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