ラザフォード・オールコック
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フェリーチェ・ベアト撮影

サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB1809年5月 - 1897年11月2日)は、イギリス医師外交官清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。開国前後の幕末日本見聞記『大君の都』の日本語訳は、長年重版している。
生涯・人物
外科医を志す

1809年ロンドン西郊のイーリングで医師トーマス・オールコックの息子として生まれた。母親が早く亡くなったため、イングランド北部の親戚の家に預けられ、15歳の時に父の元に戻り、医学の勉強を始めた。最初ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受けた後、1828年までパリに留学し、解剖学化学自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の2病院で研修医として2年間過ごし、1830年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を得た。

1832年からの4年間はイギリス軍の軍医として、戦乱のイベリア半島に赴任している。ロンドンに戻った後、内務省解剖検査官などをしたが、外務省の要請により、イベリアでの外交問題処理のため、再びスペインポルトガルに赴任した。しかし、イベリアでの過労がたたってリウマチに侵され、両手の親指が全く利かなくなった。このため、外科医として将来を断念した。
清への外交官として

その後、オールコックは外務省に入り外交官に転身した。

この頃イギリスは1840年からのアヘン戦争を破って海禁を解き、南京条約により清の5港を開港させていた。この極東情勢に興味を持った[1]オールコックは、1844年福州領事に任命されると、しばらくアモイで過ごした後、条約港福州での領事業務に携わった。不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、1846年上海領事、1855年広州領事に転じ、15年の長きにわたって中国に在勤した。この間、福州、上海における租界の発展に尽力した。オールコックは市場開拓のため清との再戦論を唱え、上海領事だった頃には首相パーマストン子爵に清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争1856年)を引き起こした[2]
日本開国後の初代駐日総領事に着任領事館が置かれた東禅寺

1858年エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、翌1859年7月1日安政6年6月2日)をもって長崎神奈川箱館の3港が開港することが約束された。オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された[3]5月3日にこの命令を香港で受け取ると、5月16日には香港を立ち、上海[4]経由で6月4日5月3日)に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を7月1日(6月2日)以前に行うように命令されていたため、長崎を6月20日5月20日)に出発し、6月26日5月26日)に品川沖に到着し、高輪東禅寺に入った。

オールコックは、7月1日(6月2日)に開港予定地である神奈川の視察に赴き、7月6日6月7日)、東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き[5]、軍馬売却を幕府に要請するなどした。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、7月11日6月12日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。なお、神奈川を視察した際に、対岸の横浜に居留地が建ち、そこが実際の開港地[6]であることを知らされる。オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協した[7]

1859年9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。12月23日(安政6年11月30日)、特命全権公使に昇格。

彼は日本の農村の様子について、こう書き残している。

『日本の民衆ががどのように税を経験してきたかはともかく、全体的にそれほど過酷ではないように思える。また、内陸への旅の間目にしてきた農民たちの幸せそうな光景を思い返すと、約二世紀前にケンペルが日本について記したことはあながち間違いとは思えなかった。』[8]

『平和で、実り豊かに満ち足りており、丁寧かつ完璧に耕され維持された農地と、装飾的な木々に溢れたこの国はイングランドでも敵わない。』[8]
富士登山オールコック富士登山記念碑(富士山富士宮5合目登山口)熱海来訪の記念碑と愛犬トビーの墓碑

1860年9月11日万延元年7月27日)には大宮・村山口登山道を用いて富士山への登山を行ったが(途中村山三坊の大鏡坊に宿泊)、この登頂は記録の残る中では外国人として初めてのことであった[9][10]。その帰路、熱海に旅行。この際愛犬のトビースコティッシュ・テリア)が大湯間歇泉の熱湯を浴び熱傷で死んでしまい、村人達が手厚く埋葬したとされる。戦後になって来訪の記念碑とトビーの墓が大湯間歇泉の脇に建てられた[11][12][13]
攘夷派の襲撃

1861年1月14日(万延元年12月4日)、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去した。オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスはこれに反対した。


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