ラサ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[2]

後代に成立したラサの建設に関する伝説では、ラサの建設は吐番王朝のソンツェンガムポ王による。

ソンツェン王は中国からギャサ(文成公主)、ネパールからペルサ(ブリクティ)という二人の妃を迎えた。二人の妃はそれぞれ、自国から携えてきた仏像を祀る寺院を建立させた。ギャサがもたらした仏像を祀る寺として建立されたのがラモチェ寺、ペルサがもたらした仏像をまつるのがトゥルナン寺である。


7世紀初頭までは「ラサ(ra sa)」(ヤギ(ra)の地)とも書かれ[3]、従って後代に成立したラサの建都伝説では、トゥルナン寺は小さな湖上を土や丸太で埋め立てて建立された。土や丸太の運搬には多数のヤギ(ra)が用いられ、トゥルナン寺の落慶ののち、ヤギの栄誉をたたえ、一頭のヤギ像が寺の傍らに建造され、「ヤギの地」という呼称が生じた。という物語が付加されている。

のちにトゥルナン寺とラモチェ寺の間で本尊の入れ替えが生じたとされ、現在ではギャサがもたらしたとされる仏像(チョウォ・リンポチェ)がトゥルナン寺に、ペルサがもたらしたとされる仏像がラモチェ寺にある。
歴史

7世紀前半にチベットを統一した吐蕃第33代ソンツェン・ガンポによりチベットの都と定められ、641年には文成公主(「公主」は中国の王室の女性に対する称号)がチベットのツェンポ(王)の妃として迎えられた。

9世紀の吐蕃の崩壊以後、チベットの政治的中心は、サキャパ政権サキャパクモドゥパ政権のツェタン、リンプンパ政権・デシー・ツァンパ政権のシカ・サムドゥプツェなど、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としたが、宗教的中心地としての地位は不動であった。1414年にはラサ三大寺の筆頭ガンデン寺の建立をかわぎりにゲルク派の本拠地となり、17世紀中期には熱心なダライ・ラマの信者であったオイラトホシュート部のグーシ・ハーンがチベットの大部分を征服したことをきっかけとして、ダライ・ラマの宗派を超えた宗教上の最高権威としての地位が確立され、諸宗派に対するゲルク派の優位、とりわけモンゴルにおけるゲルク派の優勢が決定的となった。

1642年に成立したダライ・ラマ政権は、当初歴代ダライ・ラマの居館があったデプン寺ガンデンポタンに置かれ、行政府の呼称はこれにちなんで「ガンデンポタン」とされた。政権の拠点としてポタラ宮殿の建設が1645年より開始され、1660年に完成したが、ポタラ宮殿への移転後も、行政府の「ガンデンポタン」という呼称は継承された。

ダライ・ラマ政権の発足により、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、モンゴル人満州人などから構成されるチベット仏教文化圏の中心ともなった。
古都ラサの構造と行政

古都ラサは、ナンコル・パルコル・リンコルの三重の環状道路から構成されている。古都ラサの領域はリンコルの内部で、ミプン(mi dpon)という行政官がおかれていた。モンラム大祭の期間のみ、ラサ三大寺の'シェゴ'がミプンにかわり街の行政を担った。

ナンコルとは、トゥルナン寺の本尊チョウォ・リンポチェ像の周囲をめぐる環状の回廊である。パルコルは、トゥルナンの門前広場を起点として、境内の外側を一周する道路で、古都ラサのメインストリートである。リンコルは、古都ラサの外縁を一周する道路である。

【ナンコル】「ナンコル」は「内側の環状巡礼路」の意。トゥルナン寺の構造は、本殿(チョカン)内の中心に千手観音像,弥勒像,パドマサンババ像などが置かれたキンコル・ティル(中庭)があり、それを取り巻く形で本尊チョウォ・リンポチェ像を祀る釈迦堂をはじめとする17のお堂が配置されている。トゥルナン寺の正門を入ってすぐ手前に広がるキャムラ・チェンモ(大中庭)を起点として、本殿をとりまき、マニ車が配置された巡回路がナンコルである。

【パルコル】「パルコル」は「まんなかの環状巡礼路」の意。西方にむかって開いたトゥルナン寺正門前広場を起点とし、同寺境内の外周を取り巻いている環状道路。古都ラサのメインストリートである。中国名「八角街」の「八角」とは、清末の1910年にチベットに侵攻してラサを占領した四川総督趙爾豊靡下の四川兵が中国語の四川方言によって「パルコル」を音写することによって成立した表記。中華民国の「国語」、中華人民共和国の「普通話」では「パージュェ」と発音されるが、中華民国の歴代政権や中華人民共和国はこの漢字表記を改めることなく、パルコルにたいする中国語の正式表記として用い続けている。中華人民共和国は古都ラサに対する直接統治を開始すると、中国の諸都市に施行した制度にならい、いくつかの「居民委員会」を設置したが、パルコルを管轄する居民委員会の呼称については、「八角」という表記ではなく、チベット語の発音をより忠実に音写した「八廓」という表記が採用され、「八廓居民委員会」と呼ばれている[4]。「八角」と「八廓」は、ひとつの「パルコル」というチベット語が異なる時代の異なる方言で音写されることによって成立した表記である。

【リンコル】ラサの旧市街の東方、北方、南方をめぐり、ポタラ宮殿のあるマルポリ、薬王山(チャクポリ)の西側をとおる、もっとも外縁に位置する環状巡礼路。現在、リンコル・ロラム(林廓南路)はラサ旧市街の下町をとおり、リンコル・シャルラム(林廓東路)、リンコル・チャンラム(林廓北路)、リンコル・ヌプラム(林廓西路)は路幅が拡張されてラサ市のメインストリートとなっている。
脚注^ 佐藤長『古代チベット史研究』下巻、pp.742-743
^ Kolma?, Josef. (1967) Tibet and Imperial China: A Survey of Sino-Tibetan Relations up to the end of the Manchu Dynasty in 1912, p. 7. Occassional paper 7. The Australian National University - Centre of Oriental Studies, Canberra.
^ Kolma?, Josef. (1967) Tibet and Imperial China: A Survey of Sino-Tibetan Relations up to the end of the Manchu Dynasty in 1912, p. 7. Occassional paper 7. The Australian National University - Centre of Oriental Studies, Canberra.
^ ツェリン・オーセル『殺劫』より。

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ラサに関連するカテゴリがあります。

ラサ市

ラサ条約


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef