ラゴス
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島の西部は中心業務地区であり高層ビルが林立し[10]、国立博物館や中央モスクキリスト教会などが建ち並ぶ[11]。首都時代には国会議事堂もここに建てられていた。東部にはメイン・マーケットがあるほか、貧困層の住宅が密集する地区もある。この島にはIdumota市場やBalogun市場といった、市内で最も大きな卸売市場もある。ラゴス島はエコ橋、カーター橋、第三本土連絡橋の3本の橋で本土と結ばれているが渋滞が激しく交通はマヒ状態であり、新しい道路やラグーンを渡る橋の建設が計画されている。島の北西には17世紀に建設された宮殿(オバ・パレス)が今も残っている。
イコイ島
ラゴス島の東側に位置する。かつては独立した島だったが今は埋め立てにより一体化している[12]。ヴィクトリア島とは小さな水路で隔てられており、5本以上の橋によって結ばれている。植民地時代のイギリス人達の邸宅地区で当時のコロニアル様式の建築物が並び、官庁、ホテル、学校、公園ゴルフ場、高級ショッピング街などが揃う、ナイジェリアのみならずアフリカでも有数の高級住宅地。
ヴィクトリア島
ラグーンの一番外側の海に面した島で、ラゴス島やイコイ島の南に接しており[13]橋で結ばれている。元はイコイ島同様の住宅街であり緑の多い島だが、ここ20年で大企業や銀行、多国籍企業の入る多数の超高層ビルが立ち並ぶ金融・ビジネスセンターとなった。繁華街でもあり、日本の領事館もある。近年渋滞がひどくなり露天商も多数出るようになった。またこの周辺のインターネットカフェなどがいわゆる「ナイジェリアの手紙詐欺の拠点となっている。
本土側

アパパ地区
ラゴス島の対岸の本土側にある、ラゴスの輸出入の拠点となる港湾地区。西アフリカ随一の大きなコンテナ埠頭があるが、もと国営だったものが民営化され、2005年オランダの船会社APモラー社に売却された。
エブテ・メタ
食品産業や学校などが盛ん。コロニアル様式の建築が並ぶ。
スルレレ
国立競技場や映画産業音楽産業、夜明けまでにぎわう歓楽街のある華やかな商業地区。
ヤバ
ラゴス大学ほか、工業・医学などの数多くの大学がある文教地区。
イケジャ
ムルタラ・モハンマド国際空港がある、ナイジェリアの空の玄関。また、ライブハウスなども多い商業地区でもある。
マココ
ラグーンに面した、水上生活者の多い地区。
行政区画

ラゴス大都市圏の16地方行政区地方行政区面積[1]
(in km2)人口[14]
(2006 Census)人口密度
(inh. per km2)
アゲゲ(英語版) (Agege)11.2459,93941,071
アジェロミ=イフェロドゥン(英語版) (Ajeromi-Ifelodun)12.3684,10555,474
アリモショ(英語版) (Alimosho)185.21,277,7146,899
アムウォ=オドフィン(英語版) (Amuwo-Odofin)134.6318,1662,364
アパパ(英語版) (Apapa)
(ラゴス港主要地区)26.7217,3628,153
エティ=オサ(英語版) (Eti-Osa)
(イコイ島およびヴィクトリア島を含む高級住宅街、ビジネス地区)192.3287,7851,496
イファコ=イジャイェ(英語版) (Ifako-Ijaiye)26.6427,87816,078
イケジャ (Ikeja)46.2313,1966,785
コソフェ(英語版) (Kosofe)81.4665,3938,174
ラゴス島(英語版) (Lagos Island)
(歴史的ラゴスであり、商業の中心地)8.7209,43724,182
ラゴス本土(英語版) (Lagos Mainland)19.5317,72016,322
ムシン(英語版) (Mushin)17.5633,00936,213
オジョ(英語版) (Ojo)158.2598,0713,781
オショディ=イソロ(英語版) (Oshodi-Isolo)44.8621,50913,886
ソモル(英語版) (Somolu)11.6402,67334,862
スルレレ(英語版) (Surulere)23.0503,97521,912
ラゴス大都市圏999.67,937,9327,941
ラゴス大都市圏の16地方行政区の地図
気候

ラゴスはナイジェリア南部の大部分と同じくサバナ気候に属している。ラゴスの雨季は2回あり、4月から7月の長く激しい雨季と、9月から10月にかけてのやや弱い雨季がある。8月は短い乾季に当たり、11月から3月までは長い乾季となる。月間降水量は5月から7月にかけては400mmを越え、8月から9月には200mmに落ち、最も降水量の少ない12月には25mmの降水量しかなくなる。乾季の最盛期である12月から2月上旬にかけては、サハラ砂漠から乾燥したハルマッタンと呼ばれる風が吹きつけ、この風がラゴスに乾燥をもたらす[15]。ラゴスの観測史上の最高気温は37.3℃、最低気温は13.9℃である[16]

ラゴスの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)32.2
(90)33.1
(91.6)32.7
(90.9)32.1
(89.8)30.9
(87.6)29.2
(84.6)28.1
(82.6)28.1
(82.6)28.9
(84)30.4
(86.7)31.0
(87.8)31.9
(89.4)30.72
(87.3)
平均最低気温 °C (°F)22.3
(72.1)23.5
(74.3)23.8
(74.8)23.6
(74.5)23.1
(73.6)22.6
(72.7)22.1
(71.8)21.7
(71.1)21.9
(71.4)22.3
(72.1)22.6
(72.7)22.4
(72.3)22.66
(72.78)
雨量 mm (inch)14.3
(0.563)42.0
(1.654)77.1
(3.035)142.4
(5.606)204.8
(8.063)312.2
(12.291)256.9
(10.114)112.4
(4.425)167.1
(6.579)135.8
(5.346)54.0
(2.126)19.0
(0.748)1,538
(60.55)
平均降雨日数1.52.76.48.912.416.213.211.612.710.94.91.4102.8
平均月間日照時間164.3169.5173.6180.0176.7114.099.2108.5114.0167.4186.0192.21,845.4
出典1:World Meteorological Organization[17]
出典2:Hong Kong Observatory (日照時間のみ)[18]
ラゴス島西部の中心業務地区イコイの住宅地ヴィクトリア島は新都心として開発が進む
歴史

ラゴスは元来「エコ(Eko、「キャッサバ畑」の意味)」という名だった。村はベニン王国から来た王族、アドによって建てられた。彼はバロ、アキンセモイン、エレル・クティの3人を生んだ。エコは王宮の建てられた場所だった。エコの南の部分に入植していた元からいた人々は「イサレ・エコ(エコの底)」と呼ばれていた。

エレル・クティは王オログン・クテレを生み、その弟ショクンは王宮の裏に「オニレ・グバレ(地主がお前の土地を一掃する)」という名の族長の邸宅を与えられた。王朝はこうして始まり、王の弟は独自の族長家を王宮の裏で始めた。

今日のラゴスは16世紀ポルトガル人によって建設され、1851年まで奴隷貿易の一大中心地となった。1807年イギリス奴隷制の禁止をかかげて西アフリカ沿岸の奴隷貿易港湾を襲い、ラゴスもその手に落ち、1861年公式にイギリス植民地として併合された[5]。今日のナイジェリアの残る部分は1886年に征服され、ヨルバ人やイボ人の地域を中心とするニジェール沿岸保護領とハウサ人を中心とする北部ナイジェリア保護領、そして直轄の植民地であったラゴスの3つの領が成立した。ラゴスは両保護領の外港として発展し、1898年には内陸部とラゴスを結ぶ鉄道も建設を開始し、1901年から一部運行を開始した。この鉄道は1912年には北部ナイジェリア保護領の中心都市・カノまで全通し、ラゴスが貿易港としてより一層発展する基盤となった。1900年にニジェール沿岸保護領が改組されて南部ナイジェリア保護領が成立するとその行政府もラゴスにおかれ、行政の中心としても発展を始めた。1906年には南部ナイジェリア保護領とラゴス直轄植民地が併合され、さらに南北ナイジェリアが1914年に1つの保護領として成立すると、ラゴスがその首都となった[19]。ラゴスはナイジェリア独立後の1960年代からビアフラ戦争に先立つ1970年代前半に掛け、石油生産を中心とした経済好況の結果、急速な発展を遂げ高層ビルが立ち並んだ。

1976年、対立しあう北部と南部の中間にあるアブジャにナイジェリアの首都が移転することになった。しかし、ほとんどの政府機関(特に国家の中枢)は、アブジャが十分に開発されていないとの理由でラゴスに残ることとなった。アブジャはアメリカ合衆国のワシントンD.C.ブラジルブラジリアのような人工的な首都であり、元から街のある通常の首都とは異なり荒地の上に新たに建設されたため、長い間街とはいえないような状態だったからである。1991年11月14日、国家の中枢とその他の政府機関がついに新しくできた首都に移り、行政機関とその関係者の大移動が起こった[13](多くの情報源では、1991年をラゴスが首都でなくなった年としているが、公式には1976年から首都ではなかった)。この変化は、ラゴスからいくらか権威と経済的な影響力を削ぐことになった。しかし、ラゴスが今でも国内最大の都市で経済の中心であるという重要性に変わりはない。

1980年代以降、クーデターが相次ぎ情勢は混乱し、政権は中央から地方まで腐敗したため、石油生産があるにもかかわらずナイジェリア経済は苦しくなった。ラゴスの失業率も高まり、大企業に勤務し邸宅に住むエリートと粗末なスラムに住む人々との格差は大きい。また犯罪率やエイズ感染率も高く、ラゴスの治安はアフリカ最悪級とされ、バックパッカービジネスマンたちの間でも悪名高い。


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