ラグビーリーグ
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ラグビーリーグはパプアニューギニアの国民的スポーツであり[7][8][9]、イングランド北部(英語版)[10]、オーストラリア東部[11] 、ニュージーランドの南オークランド(英語版)、フランス南西部、レバノンで人気がある[12]

ヨーロッパのスーパーリーグオーストラリアNRLがクラブの最高位の大会である。主にヨーロッパオーストララシア太平洋の国同士の国際試合も行われ、国際競技連盟である国際ラグビーリーグ連盟によって統括されている。最初のラグビーリーグ・ワールドカップは1954年にフランスで開催された。オーストラリアワールドカップを2017年から保持している[13]
概要

1895年8月29日、休業補償問題がきっかけで、主に北イングランドのラグビークラブにより「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」(NRFU) が結成された。当時、北部の選手は週6日働いていたが、ラグビーの試合はほとんど土曜日に開催されることが多かった。したがって試合に出るには仕事を休まなければならず、補償もなかった。一方、南部の裕福な選手は週5日労働で土曜日は休み。そこで北部のラグビークラブは南部のラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) に、仕事を休んで試合に出た選手に報酬をわたすことを提案したが、RFUは受け入れず、新団体の結成に至った[14]

NRFU結成時点ではラグビーリーグとラグビーユニオンのルールは全く同一のものであったが、NRFUの選手のほとんどが日曜日以外の平日に出勤する必要のあった、今日的な意味でのアマチュア選手がほとんどであったことから、ラック・モール・ラインアウトなどの負傷の危険性が高い(少なくともNRFUがそう考えた)ルールが廃止され、現在のラグビーリーグのルールが確立されていった。

また、ラグビーリーグは設立の理由自体が金銭問題であったため、選手の金銭の授受に関してはきわめて寛容であり、そのためプロ選手が早くから存在していたが、ラグビーリーグ自体はプロ選手専用競技と言うわけではなく、アマチュア選手も存在している。
語源

「ラグビーリーグフットボール」は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドにおいて1895年から1908年の間にラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) から分裂した団体名からその名称を取っている。

そのうちの一つ、「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」(NRFU) は、イングランドのラグビー・フットボール・ユニオンの分派として1895年に設立された。双方の組織は当初同じルールで試合を行っていたが、ノーザン・ユニオンはすぐにルールの修正を始め、より速いペースで行われるラグビー競技を作り上げていった。1907年および1908年にオーストラリアおよびニュージーランドにおいて、RFU系協会から同様の分派が分裂、「ラグビーフットボールリーグ」と改称し、ノーザン・ユニオンのルールを導入した[15]。1922年、ノーザン・ユニオンも名称を「ラグビー・フットボール・リーグ」へ改称し[16]、そのうちにこのスポーツ自身も「ラグビーリーグ」フットボールとして知られるようになった。
歴史史上初のチャレンジカップ決勝(1897年): バットレイ(左)対セント・ヘレンズ(右)ジョージホテル(ハダーズフィールド)

1895年8月29日、主に北イングランドのラグビークラブにより「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」(NRFU) が結成され、ラグビーフットボールは分裂した[17]労働者階級の北部のチームの成功など多くの要素がこの分裂の要因となったものの、主な意見の相違はRFUがアマチュア主義を強化し、選手への「休業補償」の支払いを認めなかったことが原因であった。

当時、ラグビーの試合はほとんど土曜日に開催されることが多かった。これは、宗教的な慣習により日曜日にスポーツをプレーすることが禁止されていたこと、そして19世紀に制定された工場法によって一定の労働者に対して土曜日に半日の休みが与えられるようになったためである[18]。しかし、炭鉱労働者や工場労働者など労働者階級の北部の選手は週6日働いていたため、試合に出るには仕事を休まなければならず、補償もなかった。

一方、南部の裕福なチームはアマチュア主義を維持するための他の収入源を有していた[3]。そこで北部のラグビークラブは南部のラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) に、仕事を休んで試合に出た選手に報酬をわたすことを提案したが、RFUは受け入れなかった。

1895年に入場料を徴収した競技場でのラグビーの開催を禁止する命令をRFUが出したことが、1895年8月29日の有名な会合へとつながった。22のクラブ(と電話で参加したストックポート)がハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開き、「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」を結成した[14]。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。

1897年に、ラインアウトが廃止され[19]1898年プロフェッショナリズムが導入された[20]。1906年、ルールを変更し、1チームは15人から13人に減り、タックル後に作られるラックはプレー・ザ・ボールに置き換わった[21]。これらのルール変更の目的の一つは、NRFUの選手のほとんどが日曜日以外の平日に出勤する必要のあった、今日的な意味でのアマチュア選手がほとんどであったことから、ラック・モール・ラインアウトなどの負傷の可能性が高い(少なくともNRFUがそう考えた)プレーを排除することであった。

イングランドで起こったものと同様の分裂は、オーストラリアシドニーでも起こった。1907年8月8日、ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーのBateman'sホテルで創設された[22]。ラグビーリーグはニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州での主要なフットボールコードとしてラグビーユニオンに取って代わっていった[23]

1954年5月5日に、イングランドブラッドフォード、オッドサル・スタジアムで行われた1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ決勝は102,569人の観衆を集め、ラグビーユニオンとラグビーリーグを含むラグビーフットボールの試合の新記録を打ち立てた[22]。また、1954年には、フランスの勧めによってラグビー界で初の世界大会であるラグビーリーグワールドカップが開催された。

1966年、国際評議会は、タックルは3回まで許され、4回目のタックルでスクラムとなるルールを導入した。タックルの回数は1972年に6回に増え、1983年にはボール所有権の引渡しがスクラムに取って代わった[24]

1967年には、初の日曜日の国際試合が行われた。

ノーザン・ラグビー・フットボール・リーグ1971-72シーズンからテトリーズ・ブルワリーとジョン・プレイヤーが初のスポンサーとなった。

1990年代にルパート・マードックニューズ・コープが全世界への放映権を有無を言わさず求めた時、ラグビーリーグは非常に大きな影響を受けた。メディアの巨人による「スーパーリーグ」運動は、この競技の伝統的な管理者に対して大きな変化を求めた。ヨーロッパでは、新たなスーパーリーグ競技会が市場を広げようとしたため冬のスポーツから夏のスポーツに移動する結果となった。オーストララシアでは、スーパーリーグ戦争の結果として、長く費用のかかる法廷闘争とファン離れが起こり、非常に競争の激しいスポーツ市場におけるラグビーリーグに対して顕著な損害を与えることとなった。

1997年には、オーストラリアでは2つのリーグが同時に開催されていた。その後、ナショナルラグビーリーグ (NRL) の設立に関する平和協定が結ばれた。
日本におけるラグビーリーグ

1993年に日本でも始まり、1994年には日本ラグビーリーグができ、日本人プロ第1号の今長賢二を皮切りに海外でリーグで活躍する選手も現れている[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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