ラグビーリーグ
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1922年、ノーザン・ユニオンも名称を「ラグビー・フットボール・リーグ」へ改称し[16]、そのうちにこのスポーツ自身も「ラグビーリーグ」フットボールとして知られるようになった。
歴史史上初のチャレンジカップ決勝(1897年): バットレイ(左)対セント・ヘレンズ(右)ジョージホテル(ハダーズフィールド)

1895年8月29日、主に北イングランドのラグビークラブにより「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」(NRFU) が結成され、ラグビーフットボールは分裂した[17]労働者階級の北部のチームの成功など多くの要素がこの分裂の要因となったものの、主な意見の相違はRFUがアマチュア主義を強化し、選手への「休業補償」の支払いを認めなかったことが原因であった。

当時、ラグビーの試合はほとんど土曜日に開催されることが多かった。これは、宗教的な慣習により日曜日にスポーツをプレーすることが禁止されていたこと、そして19世紀に制定された工場法によって一定の労働者に対して土曜日に半日の休みが与えられるようになったためである[18]。しかし、炭鉱労働者や工場労働者など労働者階級の北部の選手は週6日働いていたため、試合に出るには仕事を休まなければならず、補償もなかった。

一方、南部の裕福なチームはアマチュア主義を維持するための他の収入源を有していた[3]。そこで北部のラグビークラブは南部のラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) に、仕事を休んで試合に出た選手に報酬をわたすことを提案したが、RFUは受け入れなかった。

1895年に入場料を徴収した競技場でのラグビーの開催を禁止する命令をRFUが出したことが、1895年8月29日の有名な会合へとつながった。22のクラブ(と電話で参加したストックポート)がハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開き、「ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン」を結成した[14]。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。

1897年に、ラインアウトが廃止され[19]1898年プロフェッショナリズムが導入された[20]。1906年、ルールを変更し、1チームは15人から13人に減り、タックル後に作られるラックはプレー・ザ・ボールに置き換わった[21]。これらのルール変更の目的の一つは、NRFUの選手のほとんどが日曜日以外の平日に出勤する必要のあった、今日的な意味でのアマチュア選手がほとんどであったことから、ラック・モール・ラインアウトなどの負傷の可能性が高い(少なくともNRFUがそう考えた)プレーを排除することであった。

イングランドで起こったものと同様の分裂は、オーストラリアシドニーでも起こった。1907年8月8日、ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーのBateman'sホテルで創設された[22]。ラグビーリーグはニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州での主要なフットボールコードとしてラグビーユニオンに取って代わっていった[23]

1954年5月5日に、イングランドブラッドフォード、オッドサル・スタジアムで行われた1953-54 ラグビーリーグチャレンジカップ決勝は102,569人の観衆を集め、ラグビーユニオンとラグビーリーグを含むラグビーフットボールの試合の新記録を打ち立てた[22]。また、1954年には、フランスの勧めによってラグビー界で初の世界大会であるラグビーリーグワールドカップが開催された。

1966年、国際評議会は、タックルは3回まで許され、4回目のタックルでスクラムとなるルールを導入した。タックルの回数は1972年に6回に増え、1983年にはボール所有権の引渡しがスクラムに取って代わった[24]

1967年には、初の日曜日の国際試合が行われた。

ノーザン・ラグビー・フットボール・リーグ1971-72シーズンからテトリーズ・ブルワリーとジョン・プレイヤーが初のスポンサーとなった。

1990年代にルパート・マードックニューズ・コープが全世界への放映権を有無を言わさず求めた時、ラグビーリーグは非常に大きな影響を受けた。メディアの巨人による「スーパーリーグ」運動は、この競技の伝統的な管理者に対して大きな変化を求めた。ヨーロッパでは、新たなスーパーリーグ競技会が市場を広げようとしたため冬のスポーツから夏のスポーツに移動する結果となった。オーストララシアでは、スーパーリーグ戦争の結果として、長く費用のかかる法廷闘争とファン離れが起こり、非常に競争の激しいスポーツ市場におけるラグビーリーグに対して顕著な損害を与えることとなった。

1997年には、オーストラリアでは2つのリーグが同時に開催されていた。その後、ナショナルラグビーリーグ (NRL) の設立に関する平和協定が結ばれた。
日本におけるラグビーリーグ

1993年に日本でも始まり、1994年には日本ラグビーリーグができ、日本人プロ第1号の今長賢二を皮切りに海外でリーグで活躍する選手も現れている[25]日本ラグビーリーグ協会[26][27][28]を中心に普及がすすめられている。
規則ラグビーリーグのフィールド。ゴールライン間の距離は100メートル幅は68メートル。ラグビーユニオン(70メートル)より幅が僅かに狭い。

試合時間は40分ハーフで、前後半で陣地を入れ替える。同点だった場合は、大会の形式に応じて、引き分けが宣言されるか、ゴールデンポイントルールによる延長戦へ突入する。

ラグビーリーグでは、対戦相手側の指定されたゴールラインを越えるまでボールを手で持って運ぶかキックで前進させ、グラウンドにボールをタッチさせることで点が得られる。これは「トライ」と呼ばれ、主要な得点方法であり[29]、4点が与えられる。対戦相手はボールを運ぶ選手をタックルし前進を妨害することで攻撃側の得点を阻止するよう試みる[29]。攻撃側は相手の守備を回避するために、ボールを他の選手にパスする。トライで得点したチームはゴールポストにキックする権利を得る(コンバージョンキック)。成功するとさらに2点が与えられる。ゴールポストへのキックは相手の反則によっても与えられ、成功するとやはり2点が与えられる(ペナルティーキック)。ドロップキックは通常のプレー中にいつでも試みることができるが、この場合は1点となる。ラグビーユニオンと比べるとラック・モール・ラインアウトなどが存在しない。また、スクラムのルールは残っているが、ラグビーユニオンと違い、形式的なプレイであるため、不要であり廃止すべきだという意見が永年となえられている。

ラグビーリーグにおけるパスは後方あるいは横方向にのみ許される。ゆえに、チームメイトはボールを保持した選手の前方へ動かないようにしなければならない。ボールを前方に蹴ってもよいが、蹴った時点でキッカーの前方にいたチームメイトはオフサイドであり、ボールを触ることができない。タックルはラグビーリーグのプレーの鍵となる要素である。ボールを持つ選手に対してのみタックルが許される。タックルは、選手が相手に捕まえられた状態で、前進が止まったり、ボールやボールを持つ手・腕が地面に付いたりした時に完了する。攻撃チームは、ボール保持権が移る前に、前進するため最大6回のタックルを受けることができる。タックルが成立するとプレーが中断。タックルを受けたプレーヤーは、ボールを足下に置き、足で後方へ転がすことによってプレーが再開される(「プレイ・ザ・ボール」)。ボールコントロールも重要であり、ボールを自分の前方にファンブルするとノックオンと呼ばれる反則になり、相手ボールのスクラムで試合が再開される。また、ボールをサイドライン(タッチライン)の外側に出した場合も、相手ボールのスクラムになる。
ポジション2008年のボクシング・デーヘディングリー・スタジアムウェイクフィールド・トリニティ・ワイルドキャッツと親善試合を行っているリーズ・ライノズ詳細は「ラグビーリーグのポジション」を参照

フィールド上の選手はフォワードとバックスに分けられているが、ルールは全ての選手に同様に適用される。それぞれのポジションは他の選手と識別するために数字が付けられている。これらの数字はある人物がどのポジションをプレーしているかを同定する助けとなる。選手への数字の付け方は、試合がプレーされる国によって異なる。オーストラリアおよびニュージーランドでは、それぞれの選手はプレーするフィールド上のポジションに応じた数字が大抵与えられる。しかしながら、1996年から、欧州のチームでは選手に特定の背番号を与えることが可能となっている(サッカーと同様)[30]


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