ラグビーフットボール
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しかしラグビーワールドカップなどをきっかけに120年以上アマチュア主義を守ってきたユニオンも1995年以降にプロを認めたこともあり、コーチ層での交流[11](リーグのディフェンスシステムをユニオンに取り入れるなど)などからしだいに対立は緩和した。現在は選手がユニオンとリーグを行き来することも多い。現在、英国ではラグビーリーグとラグビーユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもある。
ラグビーユニオンとラグビーリーグの統合年表
18世紀まで


1400年から1800年 - 多くの異なる種類の
フットボール(サッカーやラグビーフットボールの先祖)がグレートブリテン島各地で行われていた。現代サッカーと異なり、ほとんどのフットボールの試合では手を使うことが許されていた。

19世紀


1830年 - ボールを持って走ることは1830年代にラグビー校で一般的になり、1850年代と1860年代にラグビースクールフットボールは連合王国中で人気となった。

1863年 - ザ・フットボール・アソシエーション (FA) が結成され、FAとラグビーフットボールの間の分裂が正式なものとなった。

ラグビーとサッカーの分裂


1864年 - 初のラグビークラブがリーズハダーズフィールドで結成され、その後1870年代と1880年代にはカンバーランドランカシャーヨークシャーで何百ものクラブが作られた。

1871年 - ラグビー・フットボール・ユニオン(ラグビーフットボール協会、RFU)が創設され、ポールモールレストラン(英語版)で21クラブによる会合が開かれた。

1871年 - 確認されている初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われた。

1876年 - マシュー・ブロクサム(英語版)の書簡がザ・ミーティア(英語版)に掲載された。この書簡ではラグビー校の生徒のウィリアム・ウェブ・エリスがボールを拾い上げたことがラグビーの発祥であると主張されている。1895年のラグビー協会の調査では証拠はないとされたが、この神話を不朽のものとすることが決定された。

1876年 - ヨークシャーカップ(英語版)がヨークシャーのラグビークラブによって始まった。この大会はFAカップ決勝よりも多くの観客を集めた。

1877年 - 選手数が1チーム20人から15人に減少した。

1883年 - 初のホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの間で行われた。

1886年 - 大部分が労働者階級で構成される北部クラブの高まる優越性を危惧して、南部が主体のラグビーフットボール協会は厳格なアマチュアルールを導入した。

1888年・1889年 - ニュージーランド先住民フットボールチームがブリテン、オーストラリア、ニュージーランド遠征を行った。

1890年- 1890/91シーズンから現代の得点システムがホーム・ネイションズによって一様に承認された。

1892年 - ブラッドフォード[要曖昧さ回避]とリーズのラグビーフットボールクラブが選手の休業保障を行ったことによって、プロフェッショナリズムの非難が向けられた。しかしラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) 自身も、1888年ブリテン諸島代表のオーストラリア遠征や、1904年にイングランドと対戦したニューサウスウェールズのHarry Hamillに対する支払いを認めている。

1893年 - ヨークシャーのクラブは選手の休業保障として6シリングを支払うことを提案したが、RFUはこの提案を否決した。これによって北部のクラブおよび選手による試合の中止が広がっていった。

ラグビーリーグとラグビーユニオンの分裂


1895年(リーグ・ユニオン) - ラグビーフットボール界の分裂の結果、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) が結成された。この分裂には、労働者階級の北部チームの成功や、入場料を徴収した競技場でのラグビー試合のRFUによる禁止命令、クラブがアマチュアリズムを受け入れなかった場合のRFUからの除籍に対する恐れ、選手が仕事を休んでラグビーの試合に出場した際の休業保障の開始など多くの要素が作用している。同じような動きは他の国々でも存在した。22のクラブがハダーズフィールドのジョージホテルで会合を開きNRFUが結成された。ハダーズフィールドでの初会合から15年以内に、200以上のクラブがRFUを脱退しNRFUに加入した。

1896年(リーグ) - マニンガムが初のノーザン・ユニオン・チャンピオンシップで優勝した。マニンガムは1903年にアソシエーションフットボール(サッカー)に転向し、ブラッドフォード・シティとなった。

1896年(リーグ) - ラグビーリーグ・チャレンジカップが創設され、開始から成功を収めた。バトリーがセント・ヘレンズを10対3で破り、初の勝者となった。

1897年(リーグ) - 試合をより興奮するものにするため、ノーザン・ユニオンはラインアウトを廃止し、全てのゴールの得点を2点に減らした。ラインアウトはタッチラインからのパントに変更された。トライは3点を与えられた。

1898年(リーグ) - ノーザン・ユニオンにプロフェッショナリズムが導入された。このプロフェッショナリズムは厳密にパートタイムであり、選手は他の「きちんとした」仕事を持っていることが義務付けられた。

1900年(ユニオン) - ラグビーユニオンが1900年の夏季パリオリンピックに採用された。これは1924年のパリオリンピックに終了した。

20世紀前半


1901年(リーグ) - ラグビーリーグのラインアウトに代わるパントアウトの導入実験がわずか4年で終了した。現在はボールがアウト・オブ・プレーになるとスクラムでリスタートされる。

1904年(リーグ) - ラグビーリーグの初の国際試合がウィガンで行われ、イングランドが他国合同チームに3対9で敗れた。

1905年(ユニオン) - ウェールズが初遠征を行ったラグビーユニオンのニュージーランド代表にかろうじて勝利した。この試合は「世紀の試合(英語版)」と呼ばれた。

1906年(ユニオン) - イングランドは(スプリングボクスとして知られる)南アフリカとラグビーユニオンの試合を初めて行った。南アフリカが黒人選手がプレーすることに抗議した後、ジェームス・ピータース(英語版)がイングランドチームから外された。

1906年(ユニオン) - ジェームス・ピータースはイングランド代表としてスコットランドと戦い、初の黒人ラグビー選手となった。

1906年(リーグ) - ラグビーリーグにおいて、よりクリエイティブなプレーのためのスペースを与えるために選手数が15人から13人に減らされた。タックル後の試合再開の形としてプレー・ザ・ボールの初期の形が導入された。

1907年(リーグ) - ラグビーリーグがオーストラリアおよびニュージーランドに広まっていった。ニューサウスウェールズ・ラグビー・フットボール・リーグがシドニーのBateman'sホテルで創設された。ニューサウスウェールズ・ラグビー・リーグは故障した選手に対する保障問題でオーストラリアン・ラグビー・ユニオンと喧嘩した後に、8チームで開始した。初優勝はサウス・シドニーが果たした。ラグビーリーグはニューサウスウェールズ州クイーンズランド州での主要なフットボール競技としてラグビーユニオンに取って代わっていった。

1907年(リーグ) - ニュージーランドラグビーリーグチームがブリテンへ遠征を行った。ニュージーランドの郵便局員アルバート・ヘンリー・バスカヴィル(英語版)によって組織されたニュージーランド遠征チームは、彼らのオープン・プロフェッショナリズムのために母国のメディアに「オール・ゴールズ (All Golds)」との汚名を着せられた。彼らはシドニーとブリテンではラグビーユニオンのルールで試合を行い、オーストラリアの偉大な選手であるダリ・メッセンジャー(英語版)に遠征に加わるよう説得した。彼らは初のテストマッチに2対1で勝利したが、バスカヴィルは帰国中に肺炎のため25歳で死去した。

1908年(リーグ) - 初のオーストラリアカンガルーズ遠征チームがブリテンを訪れた。ハンスレット(英語版)は、チャンピオンシップ、チャレンジカップ、ヨークシャーカップ、ヨークシャーリーグの4つのトロフィー全てを手にした初のクラブとなった。ハンスレットはラグビーリーグ初期の主要な選手であるアルバート・ゴールドソープ(英語版)に率いられた。

1910年(ユニオン) - ラグビーユニオンのホーム・ネイションズ・チャンピオンシップがフランスの参加によりファイブ・ネイションズ・チャンピオンシップとなった。

1910年(リーグ) - 初のノーザン・ユニオンのブリティッシュ・ライオンズによる遠征がオーストラリアおよびニュージーランドへ行われ、シドニーとブリスベンで行われたテストマッチに勝利した。

1912年(ユニオン) - ラグビーユニオン南アフリカ代表がブリテン諸島およびフランスに遠征した。遠征チームはイングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのヨーロッパ5チーム全ての勝利する「グランドスラム」を達成した。

1914年(リーグ) - ハダーズフィールドのアルバート・ローゼンフェルド(英語版)が1シーズン100トライを記録した。ブリテン代表遠征チームはテストマッチ3連戦の最終戦でオーストラリアに14対6で勝利し、The Ashes(英語版)を勝ち取った。最後までこの試合に残っていたのはわずか10人であり(選手交代は認められていなかった)、ロークス・ドリフト(英語版)のテストマッチとして知られるようになった。

1922年(リーグ) - ノーザン・ユニオンはラグビー・フットボール・リーグと改名した。この組織名がオーストラリアにおけるこのスポーツの名称としても以後使用されるようになった。

1925年(ユニオン) - ラグビーユニオンのオールブラックスのブリテン、フランス、カナダ遠征が行われた。ニュージーランド人達は遠征中無敗を誇り、「The Invincibles(無敵)」の称号を得た。

1929年(リーグ) - 初のラグビーリーグ・チャレンジカップ決勝がウェンブリーで行われた。41,500人の観衆の前でウィガンがデューズベリー(英語版)に13対2で勝利した。

1930年(ユニオン) - ファイブ・ネイションズとは別にラグビーユニオンヨーロピアンカップが始まった。
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