1887年3月11日にニューヨーク州ニューヨーク市に産まれる。本名はアルバート・エドワード・ウォルシュ(Albert Edward Walsh)。父親はイングランド系で、母親はアイルランド系。弟のジョージ・ウォルシュは俳優で、ウォルシュの作品に数多く出演していた。
シートン・ホール大学を卒業し、1909年に、ニューヨークで舞台俳優としてデビュー。1913年に、ラオール・ウォルシュまたは、R・A・ウォルシュと名乗るようになる。同時に短編映画の監督をいくつかこなすようになる。1914年、D・W・グリフィスのアシスタントとなり、『国民の創生』にも出演している。1915年にグリフィスから独立した後、フォックス・フィルムに入社。長編デビュー作にしてアメリカ映画初の長編ギャング映画『復活 (1915年の映画)
(英語版)』を皮切りに、15本もの映画を制作。1916年に女優のミリアム・クーパーと結婚し、彼女の主演作を数多く手掛けるも1926年に離婚してしまう。1924年、ダグラス・フェアバンクスや上山草人が出演したサイレント映画『バグダッドの盗賊』を手掛け、一躍知名度が上がる。その後は、ヴィクター・マクラグレンとドロレス・デル・リオが出演した戦争映画『栄光 (1926年の映画)(英語版)』(1926年)や、グロリア・スワンソン主演で、ウォルシュ自身も役者として出演した『港の女』(1928年)などを次々と手掛ける。
1928年自身の監督兼主演で『懐しのアリゾナ』の製作に着手、ウォルシュにとって事実上初のトーキー作品であったが、撮影中に交通事故に遭い、右目を失明してしまう。これが原因でウォルシュは途中降板し、監督はアーヴィング・カミングスに、主演はワーナー・バクスターに引き継がれた。
1930年にフォックスから70mmフィルムによる西部劇大作『ビッグ・トレイル』の監督を依頼される。当初はゲイリー・クーパーを主演に考えていたものの、クーパーと契約していたパラマウント映画からの許可が得られずに失敗。しかし、同じくフォックスに所属していたジョン・フォードから無名の俳優マリオン・ロバート・モリソンを紹介され、主演に抜擢する。ウォルシュはその俳優にアメリカ独立戦争の英雄アンソニー・ウェインに因みジョン・ウェインと名付けた。ウェインとは、『暗黒の命令』(1940年)で再びタッグを組んでいる。
『ビッグ・トレイル』は当時の金額で200万ドルもの費用が注ぎ込まれたものの、興行的に失敗。ウェインはジョン・フォード監督の『駅馬車』(1939年)までB級映画専門の俳優として不遇の時代を過ごすことになる。
1933年にジョセフ・M・シェンクとダリル・F・ザナックが設立した20世紀ピクチャーズの第1回作品『バワリイ(英語版)』の監督を担当し、劇中でジョージ・ラフトがブルックリン橋から飛び降りるアクションシーンを手掛け話題を呼んだ。