その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した[8]。
その政治体制はラオス人民革命党(パテト・ラオの政党[8])による一党独裁体制である[10]。『エコノミスト』誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界155位と下位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)[11]。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも172位と下位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)[12]。
人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、人民の基本的自由が著しく制約されていること、労働権が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している[13]。
経済面では1975年以降、社会主義計画経済のもとにあったが、ソビエト連邦のペレストロイカやベトナムのドイモイの影響を受けて1986年から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている[8][9]。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである[14]。また、中華人民共和国が主導する経済圏「一帯一路」に参加しており、中国ラオス鉄道に代表されるインフラ建設などが進んでいるが[15][16]、債務を返済できなくなる「債務のワナ」に陥ることも懸念されている[17][18]。
外交面では王政時代の1955年に国連に加盟し、1997年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟[4][9]。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが[8]、2009年以降中華人民共和国との外交を強化している[19]。
軍事面では徴兵制度が敷かれており、ラオス人民軍の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は日本円にて約30億円(2016年)ほどである[20]。正規軍のほかにも、地方防衛用の民兵である自衛隊が10万人いると言われる[9]。
人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人[21]。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、ほかにも少数民族が多数暮らしており[22]、ベトナム人や中国人なども住んでいる[7]。
地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である[23]。その間をメコン川とその支流が流れている[7]。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。 正式名称はラーオ語で??????????? ?????????? ??????????,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 発音 [s??.t?a?.la?.na?.lat pa?.sa?.t?i?.pa?.taj pa?.sa?.son.la?w]
国名
公式の英語表記は Lao People's Democratic Republic(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。
日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇[24]、老?[25]。一方、中国国内では「老?(簡体字: 老?, .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: L?ow?)」と表記し「老」と省略するが、台湾[26]、香港、マレーシア、シンガポールでは「寮國(簡体字: 寮国, ?音: Liaoguo)」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。 ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がファー・グム王
歴史詳細は「ラオスの歴史」を参照
ラーンサーン王国
17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った[27]。