ラオス
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地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原山岳地帯である[23]。その間をメコン川とその支流が流れている[7]。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。
国名

正式名称はラーオ語で??????????? ?????????? ??????????,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 発音 [s??.t?a?.la?.na?.lat pa?.sa?.t?i?.pa?.taj pa?.sa?.son.la?w] 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。

公式の英語表記は Lao People's Democratic Republic(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。

日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇[24]、老?[25]。一方、中国国内では「老?(簡体字: 老?, .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: L?ow?)」と表記し「老」と省略するが、台湾[26]香港マレーシアシンガポールでは「寮國(簡体字: 寮国, ?音: Liaoguo)」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。
歴史詳細は「ラオスの歴史」を参照
ラーンサーン王国

ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がファー・グム王(英語版)により建国[27]。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ[27]。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた[28]

17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った[27]。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国ルアンパバーン王国チャンパーサック王国の3国に分裂[27]。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた[27]
フランス植民地支配

19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めたころには、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年フランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた[9]

第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした[9]

だが大戦後、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立した。
独立と内戦

1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴン北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した[29][30]

東西冷戦中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。
ラオス人民民主共和国

1977年12月、在ラオス日本大使館杉江清一書記官夫妻殺害事件が発生。反政府派による政治的犯行を示唆する発表がラオス国営放送から成された[31]

1979年中国共産党と関係断絶。

1980年タイと国境紛争。

1986年、新経済政策(チンタナカンマイ)を導入。

1987年、タイと国境紛争(タイ空軍機1機が撃墜される)。

1988年、タイとの関係正常化。

1989年カイソーン・ポムウィハーン首相が中国公式訪問、翌1990年の中国・李鵬首相のラオス公式訪問で、対中関係の改善。

1991年憲法制定。ラオス人民革命党の一党体制維持を確認。

1992年2月、タイと友好協力条約を締結。7月、ベトナムとともに東南アジア諸国連合 (ASEAN) にオブザーバーとして参加。11月21日カイソーン・ポムウィハーン国家主席(ラオス人民民主共和国の初代最高指導者)死去。

1997年7月23日、東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟[32](ミャンマー加盟と同日)。


2006年4月30日投票の第6期国民議会(一院制、任期5年)選挙の結果選出された国会議員115人のうち114人はラオス人民革命党の党員で、非党員は1人。同年6月に招集された第6期国民議会第1回会議において、ラオス人民革命党書記長で軍出身のチュンマリー・サイニャソーンが国家主席に、ラオス人民革命党政治局員のブアソーン・ブッパーヴァンが首相に選出された。


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