ラウル・カストロ
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また、同年には国営企業に対して従業員の給与引き上げを指示し[26]携帯電話の使用制限や旅行制限を撤廃した[27]

2011年4月、中国を模倣した300の経済計画を発表した。計画の骨子として州政府の支出削減、外国投資の奨励と農地改革、民間投資の奨励、自身を含めた政治指導部の権限縮小を掲げている。

2014年9月21日、観光業振興の一環として、約9,000軒の国営飲食店の民営化を決定し、サービス向上と食品の品質改善を指示した[28]

憲法の改正を主導し、私有財産を認めるなどの条項を含んだ新憲法は2019年に承認・施行された[29][30]
アメリカとの国交正常化詳細は「キューバの雪解け」を参照

革命以来、軍内での基盤が堅く、アメリカとの闘争などでは兄よりも強硬派とされている。1962年キューバ危機では最後まで強硬論を兄に進言し続けていた。

しかし、議長就任後の2008年11月に行ったインタビューでは、「アメリカはキューバにとって最も近い隣人です。私たちは互いを尊重するべきであり、私たちはアメリカの人々に対し何の敵意も持ってはいません。両国の友好関係は互いにとって有益です。我々は全ての問題を解決することは出来ませんが、より多くの問題を解決することが出来るはずです」

と答え、アメリカとの関係改善に含みを持たせた[31]

2013年12月10日、南アフリカ共和国ヨハネスブルグで行われたネルソン・マンデラの追悼式に出席した際、アメリカ大統領バラク・オバマと握手を交わし、「関係改善の兆し」として注目を集めた[32]。また、ラウルとオバマの握手について、フィデルも「友好的ながらも毅然とした態度だった」とラウルを評価している[33]2015年4月11日、オバマと会談するラウル

2014年12月16日にオバマと電話会談し、翌17日に会見でアメリカと国交正常化交渉に入ることを明らかにした[34]。20日には人民権力全国会議で演説し、アメリカに対してテロ支援国家の指定や経済制裁の解除を求めた他、今後も社会主義体制を維持すると表明した[35]

関係改善に踏み切った背景には、キューバの経済状況の悪化と、盟友だったウゴ・チャベスの死後、ベネズエラがキューバへの石油輸出を減少させていることが挙げられており[36]、チャベスが死去した2013年からローマ教皇フランシスコの仲介で国交正常化に向けた協議を重ねていた[37]

2015年4月11日、パナマで行われた米州首脳会議に参加し、会場でオバマ大統領と59年ぶりの米・キューバ首脳会談を行った[38]。会談の場では経済制裁の解除を求めた他、アメリカからキューバに逃亡した犯罪者の扱いについて協議した。また、キューバの人権状況や報道の自由についても議論すると表明したが、「幻想を抱いてはいけない」として譲歩する気はないと発言している[39]。7月には正式にキューバとアメリカの国交が回復し、相互の大使館が再開された。

2016年3月21日、オバマが現職のアメリカ大統領として88年ぶりにキューバを訪問し、ラウルと首脳会談を行った[40]。会談では両国関係の正常化推進や経済・通信分野での関係を改善することで一致したが、人権問題については「深刻な違い」と主張するオバマに対し、ラウルは「我々は人権を守っている」と反論している[41]
日本との関係

2015年5月2日、岸田文雄外務大臣は日本の外務大臣として初めてキューバを訪問し、ラウルを表敬訪問し、幅広く二国間関係を一層強化していくことで一致[42]。2016年9月22日、安倍晋三首相が日本の首相として初めてキューバを訪問し、首都ハバナでラウルと会談。日本が12億7300万円の無償資金協力で医療機材などを供与する書簡を交わした[43]
退任後

91歳となっていた2023年4月19日に行われた人民権力全国会議に姿を見せ、97.66%の賛成票をもって大統領に再選されたミゲル・ディアス=カネルと固い握手を交わし、継続的に支持することをアピールした[44]
家族

1959年1月26日、マサチューセッツ工科大学の学生だったヴィルマ・エスピン(英語版)と結婚し、一男三女をもうけたが、2007年6月18日に死別している[45]。ヴィルマは生前はキューバ女性連盟(英語版)の会長を務めていた[46]

長女のマリエラ・カストロ(英語版)は人民権力全国会議代議員で性マイノリティ(英語版)に対しての慈善活動を行っている。長男のアレハンドロ・カストロ・エスピン(英語版)は内務省(スペイン語版)大佐を務めている。
脚注^ “CIA - The World Factbook - Cuba”. cia.gov. 2010年1月15日閲覧。
^ Jose de Cordoba, David Luhnow and Bob Davis (2006年8月2日). “Castro's Illness Opens Window on Cuba Transition”. The Wall Street Journal: pp. 1, 12 
^ a b Miguel A. Faria Jr. (2001年8月15日). ⇒“Who is Raul Castro? (Part I)”. News Max. ⇒http://www.newsmax.com/archives/articles/2001/8/15/224049.shtml 2006年8月5日閲覧。 
^ Faria, Miguel. “ ⇒Who Is Raul Castro? (Part II)”. 2001年8月22日閲覧。
^ “ ⇒Revolutionary Firing Squads” (2008年). 2008年2月20日閲覧。
^ Rojas, Marta (2006年9月4日). “When Raul Castro assumed responsibility for the assault on the Moncada Garrison”. ⇒オリジナルの2006年8月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060821233305/http://www.granma.cu/ingles/2006/agosto/vier4/33raulmon-i.html 
^ Faria, Miguel. “ ⇒Fidel Castro and the 26th of July Movement”. 2004年7月27日閲覧。
^http://cuba1952-1959.blogspot.com/2009/12/1958-castro-rebels-take-us-hostages.html
^ Audio: ⇒Cuba Marks 50 Years Since 'Triumphant Revolution' by Jason Beaubien, NPR All Things Considered, 1 January 2009
^ a b Tim Padgett and Dolly Mascarenas (2006年8月2日). ⇒“Why Raul Castro Could End Up a Reformer”. Time. ⇒http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1222009,00.html 2006年8月5日閲覧。 
^ Phillip Hart (2006年7月30日). ⇒“From Castro to Castro”. London: Daily Telegraph. ⇒http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2006/07/30/wcuba30.xml 2006年8月5日閲覧。 
^“Fidel Castro Says Health Stable in Statement Read on State Television”. FoxNews.com. (2006年8月1日). ⇒http://www.foxnews.com/story/0,2933,206483,00.html 2006年8月5日閲覧。


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