ラインラント進駐
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フランスがラインラントに軍隊を駐留させていたあいだは、フランスはドイツに悪い兆しを認めれば、ドイツにとって経済的に重要なルール地方にフランス軍を侵攻させやすかったためである[11]
イギリス

イギリスの反応は様々であった。しかし一般には、ドイツ軍のラインラント進駐は問題であると考えていなかった。外交官の第11代ロジアン侯爵フィリップ・カー(英語版)は、ドイツは自分自身だけで歩くべきだという有名な発言を行った。ジョージ・バーナード・ショーは、イギリスがポーツマスに軍隊を進めるのと違いは無いと同様の発言を行った。3月23日の彼の日記で、ハロルド・ニコルソン下院議員は次のように記述している。「(英国)下院の考えは酷く親ドイツ的である。これは、戦争を怖がってのことである。」[12]スタンリー・ボールドウィンは、イギリスはヴェルサイユ条約を守らそうとする手段を欠いている、大衆の意見は軍隊をまったく支持していない、と涙をためながら言った。イギリスの外務大臣、アンソニー・イーデンはフランスの軍事行動を抑制させて、ドイツに対する経済的金銭的な処罰に反対した。

3月12日に下院の外務委員会の会合で、保守党のウィンストン・チャーチルは、ドイツ軍のラインラント進駐に対するフランスの要求をバックアップするために、国際連盟の下で英仏間の調整をすることに賛成した。
ベルギー

ベルギー1920年にフランスとの同盟を締結していたが、ドイツ軍がラインラントへ進駐した後、ベルギーは中立性を維持するという選択を行った。1936年10月14日、ベルギーのレオポルド3世王は以下のような演説を行った。

ドイツ軍のラインラント進駐はロカルノ条約を終了させ、我々を戦前の国際的な位置に戻した。…我々は他国と同盟することのない政策を進め、全ベルギーを導いていかなければならない。この政策はわれわれが隣国の争いに巻きこまれないようにするものでなければならない。[13]
ポーランド

ポーランド1921年に調印されたフランス・ポーランド防衛協定を遵守する宣言を行った。その協定は、ポーランドはフランスが侵攻された場合にのみ、フランスを支援すると規定していたが、ポーランドは仮にフランスが最初に侵攻を行った場合でも、自国の軍隊の動員を行うことを宣言した。しかし、国際連盟の総会におけるドイツ軍のラインラント進駐に対する投票ではポーランドは棄権をした。
国際連盟

ロンドンで国際連盟の総会が開かれた際に、ドイツへの制裁に賛成する唯一の代表は、ソビエト連邦の代理であるマクシム・リトヴィノフであった。満場一致ではなかったが、総会はドイツ軍のラインラント進駐がヴェルサイユ条約とロカルノ条約に対する違反であると断言した。ヒトラーはヨーロッパの新たな安全に対する新しい計画を求められ、「ヨーロッパにおける領有主張を行うつもりは無い」という返答を行ない、イギリスやフランスとの間で25年の不可侵条約を結ぶことを要求した。しかし、イギリス政府がこの提案した条約に関して更に詳細を要求したが、それに対する回答は無かった[14]
脚注^ Martin Gilbert and Richard Gott, The Appeasers (Phoenix Press, 2000), p. 41.
^ Rupert Matthews, Hitler: Military Commander (Arcturus, 2003), p. 115.
^ 同書(Ibid), p. 13.
^ 同書(Ibid), p. 116.
^ J. R. Tournoux, Petain et de Gaulle (Paris: Plon, 1964), p. 159.
^ Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny (London: Odhams, 1952), p. 135.
^ Shirer quotes the figure of France having 100 divisions compared to Germany's four battlions.
^ 児島襄 『誤算の論理』 文春文庫 (1990年)ISBN 4-16-714134-5
^ A. J. P. Taylor, The Origins of the Second World War (Penguin, 1991), p. 130.
^ 同書(Ibid), p. 131.
^ Correlli Barnett, The Collapse of British Power (Pan, 2002), p. 336.
^ Harold Nicolson, The Harold Nicolson Diaries: 1919-1964 (Weidenfeld & Nicholson, 2004), p. 139.
^ Charles Cheney Hyde, 'Belgium and Neutrality', The American Journal of International Law, Vol. 31, No. 1. (Jan. 1937), p. 82.
^ Taylor, p. 133.

参考文献

Correlli Barnett, イギリスの力の崩壊 (The Collapse of British Power) (Pan, 2002).

Alan Bullock, ヒトラー:専制の研究 (Hitler: A Study in Tyranny) (London: Odhams, 1952).

Martin Gilbert, チャーチル:生涯 (Churchill: A Life) (Pimlico, 2000).

Martin Gilbert and Richard Gott, The Appeasers (Phoenix Press, 2000).

Charles Cheney Hyde, 'ベルギーと中立 (Belgium and Neutrality)', The American Journal of International Law, Vol. 31, No. 1. (Jan. 1937), pp. 81-85.

Rupert Matthews, ヒトラー:軍事指導者 (Hitler: Military Commander) (Arcturus, 2003).

Harold Nicolson, ハロルド・ニコルソンの日記 (The Harold Nicolson Diaries: 1919-1964) (Weidenfeld & Nicholson, 2004).

A. J. P. Taylor, The Origins of the Second World War (Penguin, 1991).(日本語訳『第二次世界大戦の起源』中央公論社、1977年)

J. R. Tournoux, Petain et de Gaulle (Paris: Plon, 1964).

ロカルノ条約のテキスト(英文) (Wikisource)

ヴェルサイユ条約のテキスト(英文) (Wikisource)


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