中世10世紀頃、この地を流れるエルスター川とパルテ川の合流地点近く(現在の中心街北西の一角)のスラヴ系ソルブ人の集落に、ドイツ人により城砦が築かれたことが街の始まりとされている。これを表す "urbs Libzi" という名称は1015年に初めて史料に現れる(地名の元になっている lipa は古ソルブ語で「菩提樹」の意)[6]。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合がある。ちなみに明治時代に日本で用いられた漢字表記は来責府である[7] )。旧市庁舎 (1557年完成のドイツを代表するルネッサンス建築物の一つ)
東方植民に続いてやがてヨーロッパ大陸を縦横に貫く2つの通商街道が形成され、広範囲の交易が盛んになると、ライプツィヒはちょうどその交差点に位置する町として神聖ローマ帝国有数の商都へと発展してゆく。王侯貴族や司教の拠点としてではなく商人の町として1165年には都市権・市場権を獲得し、商人たちの守護聖人である聖ニコラウスに捧げられた市内最初の教会・ニコライ教会が創建された。興隆に伴って入植者が増加してゆき、1212年にはアウグスチノ会トーマス修道院(現・トーマス教会)とそれに付属するトーマス学校が創設された。1409年に同修道院内に開学したライプツィヒ大学は、現在のドイツ国内で最古の大学の一つである[8]。15世紀に入ると、「大市開催地として国際的な意義を獲得した」 [9]。16世紀にはルターが当地で信仰をめぐる論争を繰り広げ(ライプツィヒ討論)、ライプツィヒは後に彼によってプロテスタント化された。
諸国民戦争記念碑 (戦闘から100年となる1913年、古戦場中央に建設されたヨーロッパ最大の記念建造物)
ザクセン選帝侯領の都市となった近世以降のライプツィヒは、三十年戦争(ブライテンフェルトの戦い・リュッツェンの戦い)の混乱を挟みつつメッセ(後述の「見本市」参照)の開催地としてヨーロッパ屈指の商都へと成長してゆく。そして17世紀後半から「時計職、馬具職、鞣皮職、染色職などのインヌンク(ギルド)が続々と成立した」ように手工業が栄えた[10]。それと共に市民層による各時代の芸術・文化が花開き、18世紀にはドイツ地方初のコーヒー店が登場し、テレマンやバッハが市民の音楽活動を率い、ゲヴァントハウス管弦楽団が創設された。1813年にはナポレオン戦争中最大規模の戦いとなった諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)が行われ、ナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセン・ロシア帝国・オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍36万が激突する舞台となった。