ライフ_(雑誌)
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To see life; to see the world; to eyewitness great events; to watch the faces of the poor and the gestures of the proud; to see strange things ? machines, armies, multitudes, shadows in the jungle and on the moon; to see man’s work ? his paintings, towers and discoveries; to see things thousands of miles away, things hidden behind walls and within rooms, things dangerous to come to; the women that men love and many children; to see and take pleasure in seeing; to see and be amazed; to see and be instructed...[3]

人生を見よう。世界を見よう。大きな出来事を目撃しよう。かわいそうな人々の顔や偉ぶった人々の仕草を見よう。奇妙なもの(機械、軍隊、民衆、ジャングルや月の影)を見よう。人間の仕事(絵画、塔、発見)を見よう。何千マイルも離れたところにあるもの、壁の向こうや部屋の中に隠されたもの、近寄ると危険なもの、男たちが愛する女性や多くの子供たちを見よう。見て喜びを感じよう。見て驚きを覚えよう。見て教えられよう...

この最初の2つのフレーズTo see Life; to see the world(人生を見よう。世界を見よう。)は、『ライフ』のモットーとなった[3]

創刊号の表紙は、マーガレット・バーク=ホワイトが撮影した、公共事業促進局の事業により作られたフォートペックダム(英語版)(ミズーリ川流域)の写真だった[4]

1936年の『ライフ』のフォーマットは、瞬く間に古典的なものとなった。テキストは50ページの写真のキャプションに凝縮されていた。この雑誌は、厚いコート紙に印刷されているにもかかわらず、値段はわずか10セントだった。発行部数は会社の予想を超えて急上昇し、創刊号の38万部から4カ月後には週に100万部を超えるまでになった[5]。この雑誌の成功は、その1年後の1937年に創刊され、1971年まで続いた『ルック』など、多くの模倣雑誌を生んだ。

ルースは1937年に、『タイム』誌の非常勤記者だったエドワード・クレイマー・トンプソン(英語版)を写真担当副編集長に抜擢した。彼は1949年から1961年まで編集長を務め、1970年に引退するまでの約10年間編集主幹を務めた。彼は、1936年から1960年代半ばまでの『ライフ』の全盛期に大きな影響を与えた。トンプソンは、編集者に自由に行動することを許していたことで知られていた。特に、ファッション担当のサリー・カークランド(英語版)、映画担当のメアリー・リザビー(英語版)、現代生活担当のメアリー・ハムマン(英語版)の3人の女性編集者が、trio of formidable and colorful women(手強く派手な三人娘)として知られていた[6]

1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、『ライフ』もそれを取り上げた。1944年には、タイム誌とライフ誌の40人の戦争特派員のうち、7人が女性だった。アメリカ人のメアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイマーガレット・バーク=ホワイト、ラエル・タッカー、ペギー・ダーディン、シェリー・スミス・マイダンズ(英語版)、アナリー・ジャコビー、そしてイギリス人のジャクリーン・サイクスである[7]

『ライフ』は、毎週発行される雑誌で、戦争の遂行を支援していた。1942年7月、『ライフ』は兵士を対象とした初のアートコンテストを開始し、全階級から1,500点以上の応募があった。最優秀作品には1千ドルの賞金が授与され、16点を選んで雑誌に掲載した。ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリーは、その年の夏に117点の応募作品を展示することに同意した。『ライフ』は、戦争を記録するために芸術家を利用しようとする軍の取り組みも支援した。軍隊が政府の資金を芸術家に提供することが議会により禁じられたため、『ライフ』はその取組みを引き継ぎ、国防総省が雇っていた多くの芸術家の雇用を継続した。『ライフ』が継続していたこの取組みは、1960年12月7日にアメリカ陸軍アートプログラム(英語版)などに引き継がれた[8]

第二次世界大戦中、『ライフ』は太平洋からヨーロッパまで全てのアメリカの戦場に写真家を送り、毎週アメリカ人に戦争を伝えた。また、敵側のプロパガンダで、Life(生)をDeath(死)に入れ替えて使用された[9]

1942年8月、デトロイトでの労働と人種をめぐる不安について、『ライフ』は次のように書いて警告した。「士気の状況は、おそらくアメリカで最悪のものである....この国の他の人達は、立ち上がって、注意を持って監視するべきである。デトロイトは、ヒトラーを吹っ飛ばすか、アメリカを吹っ飛ばすかのどちらかだ[10]。」エドワード・ジェフリーズ(英語版)市長はこれを読んで激怒した。「デトロイトの愛国心はアメリカのどの都市にも負けない。『ライフ』の記事は全くのデマだ... 私ならイエロー雑誌と呼んで放っておくよ」と語った[11]。この記事は戦争の遂行にとっては非常に危険と考えられ、北米以外で販売された『ライフ』誌からは検閲(英語版)により除去された[12]

『ライフ』は、著名な戦争写真家ロバート・キャパと契約した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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