ライフ_(雑誌)
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『ライフ』の記事は全くのデマだ... 私ならイエロー雑誌と呼んで放っておくよ」と語った[11]。この記事は戦争の遂行にとっては非常に危険と考えられ、北米以外で販売された『ライフ』誌からは検閲(英語版)により除去された[12]

『ライフ』は、著名な戦争写真家ロバート・キャパと契約した。『コリアーズ(英語版)』誌のベテランであるキャパは、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の第一波(D-デイ)に同行したが、撮ってきたのはほんの僅かな写真だけで、その多くはピントが合っていなかった。『ライフ』誌に掲載された写真のキャプションには、キャパの手が震えていたために写真がぼやけていたと書かれていた。キャパはそれを否定し、暗室のせいでネガが台無しになったと主張した。後にキャパは『ライフ』誌のキャプションをからかって、1947年に刊行した戦争写真集のタイトルをSlightly Outly Out of Focus(『ちょっとピンぼけ』)とした。1954年、キャパは第一次インドシナ戦争の取材中に地雷を踏んで死亡した。『ライフ』の写真家ボブ・ランドリーもD-デイに同行したが、「ランドリーのフィルムはすべて失われ、靴も失われた」という[13]

特筆すべき誤報として、1948年の大統領選挙の直前の号で、大統領候補のトーマス・E・デューイらがサンフランシスコ湾をフェリーで渡っている様子の大きな写真に"Our Next President Rides by Ferryboat over San Francisco Bay"(次期大統領がサンフランシスコ湾をフェリーで渡る)という見出しをつけたことがある。この選挙では、現職のハリー・S・トルーマンが地滑り的当選を果たした[14]。なお、この選挙では他の新聞等でも同様の誤報(『シカゴ・デイリー・トリビューン』のデューイ、トルーマンを破るなど)があった。

1950年5月10日、エジプトの閣僚会議は『ライフ』誌を国内から永久に追放した。販売中の全ての雑誌は回収された。理由は発表されていないが、1950年4月10日に「エジプトの問題王」と題して、ファールーク1世国王に関する記事を掲載したことに対し、政府はそれを国を侮辱していると考えたためと見られている[15]

1950年代の『ライフ』は、一流の作家に仕事を依頼することで、一定の評価を得ていた。1951年にはアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』が『ライフ』誌に掲載され、翌1952年に出版された。その後、ヘミングウェイは『ライフ』誌から闘牛に関する4,000語の記事の執筆を請け負った。彼は1959年にスペインを訪問し、2人のトップマタドールの間で行われた一連の闘牛大会を取材した後、10,000語の記事を送った。この記事は、1985年に中編小説『危険な夏(英語版)』として出版された[16]

全世界で900万人が鑑賞した1955年のニューヨーク近代美術館の巡回展「ファミリー・オブ・マン(英語版)」では、キュレイターのエドワード・スタイケンは『ライフ』の写真を多用した。アビゲール・ソロモン=ゴドー(英語版)によれば20%以上が『ライフ』の写真でだった[17]。スタケインの助手であるウェイン・F・ミラー(英語版)は、1953年後半から『ライフ』誌のアーカイブに入り、推定9ヶ月間を費やして写真を選んだ。彼は350万枚の画像を探し回り、そのほとんどがオリジナルのネガの形であり、雑誌に掲載されていない画像を選定してスタイケンに提出した(写真部門が渡された全てのフィルムをコンタクトプリントにするようになったのは戦争末期に入ってからである)[18]

1954年11月、女優のドロシー・ダンドリッジが、アフリカ系アメリカ人女性として初めて『ライフ』の表紙を飾った。

1950年代が終わりを迎え、テレビの人気が高まるにつれ、同誌は読者を失うようになった。1959年5月には、店売りでの定価を1部25セントから20セントに値下げすることを発表した。テレビの売り上げと視聴者数の増加に伴い、ニュース雑誌への関心は薄れていった。『ライフ』は新しい形へ変化する必要に迫られていた。
1960年代と時代の終焉

1960年代の同誌は、映画スター、ジョン・F・ケネディ大統領一家、ベトナム戦争アポロ計画などのカラー写真で埋め尽くされていた。典型的なのは、女優エリザベス・テイラーと俳優リチャード・バートンとの関係についての1964年の長編特集である。ジャーナリストのリチャード・メリマン(英語版)はテイラーと一緒にニューヨーク、カリフォルニア、パリを訪れ、6,000語の記事を執筆した[19]

1960年代には、ゴードン・パークスの写真が掲載されていた。2000年にパークスは当時のことを振り返ってこう述べた。「カメラは、世界について私が嫌いなものや、世界の美しいものをどうやって見せるかということに対する私の武器です。私は『ライフ』誌のことは気にしていませんでした。私は人々のことを気にしていました[20]。」

1964年6月のポール・ウェルチによる『ライフ』の記事「アメリカにおける同性愛」は、全国的な出版物でゲイの問題を取り上げた最初の記事だった。ライフの写真家はハル・コール(英語版)から、この記事のために「ツールボックス」という名前のサンフランシスコのゲイ・レザー・バーを紹介された。コールは初期のゲイ活動家の1人で、男性同性愛者は女々しいという神話を払拭するために長い間活動していた。この記事は、1962年にチャック・アーネット(英語版)が描いたバーの等身大のレザーマンの壁画の見開き2ページの写真で始まった[21][22]。この記事では、サンフランシスコを「アメリカのゲイの首都」と表現し、多くのゲイがそこに移住するきっかけとなった[23]

1967年3月、『ライフ』はコロンビア大学ジャーナリズム大学院が選んだ全米雑誌賞(英語版)を受賞した。これは、1966年1月に掲載されたアンリ・ユエ(英語版)による傷ついた衛生兵の写真シリーズなど、東南アジアでの戦争で撮影された優れた写真が評価されたものである。『ライフ』がベトナム戦争の様子を掲載した写真は、死と喪失を痛烈に描いたものがますます増えていた。

1969年にアメリカの月探査ミッションを掲載し、業界の賞賛を浴びたが、一方で同誌は発行部数を減らし続けた。タイム社は1971年1月、縮小する広告収入を相殺するために、発行部数を850万部から700万部に減らすことを決定したと発表した。その1年後、『ライフ』は1972年1月14日号から、発行部数を700万部から550万部に減らした。『ライフ』は資金を失っていないと報告されていたが、制作費用の上昇は利益の上昇よりも速く進んでいた。1972年1月、ハワード・ヒューズの自伝を捏造したことが明らかになった作家クリフォード・アーヴィングを『ライフ』誌が支持したことで、多くの読者からの信頼を失った。同誌はアーヴィングの原稿の連載権を購入していた。

『ライフ』の発行部数の約96%は定期購読者によるものであり、より収益性の高いニューススタンドでの販売はわずか4%だった。一時は700万部の発行部数を誇ったが、1969年頃から慢性的に赤字体質となった。1972年12月8日、タイム社はこれ以上の改善は見込めないとして同年12月29日号をもって休刊とすることを発表した[24]

その後、タイム社は、「イスラエルの精神」、「アメリカの注目すべき女性」、「映画の中の年」などをテーマにした『ライフ』の特別版を1972年から1978年までの間に10冊発行した。広告も最小限のものとなり、刊行部数は50万部から100万部の間だった。
月刊誌時代(1978年-2000年)

1978年10 月号より『ライフ』は月刊誌として復刊され、ロゴマークも変更された。赤い長方形に白い文字であることに変わりはないが、文字が太くなり、文字の間隔が短くなり、赤い長方形も小さくなった。

『ライフ』はその後22年間、一般向けのニュース特集誌として発行が続けられ、中程度の成功を収めた。1986年には、グラフ誌としての創刊から50周年を記念して、1936年以降の『ライフ』の全表紙(1970年代の6年間の休刊期間中の特別号を含む)を掲載した特別号が発行された。この時代の発行部数は150万部を超えていた。1986年の1冊の価格は2.50ドル(2019年の物価換算で5.83ドル)だった。当時の出版者はチャールズ・ウィッティンガム、編集者はフィリップ・クンハルトだった。1991年、『ライフ』は湾岸戦争に特派員を派遣し、特別号を発行した。週刊『Life in Time of War』は、湾岸戦争中に4号発行された。

その後、経営状況が再び悪化し、1993年7月号から雑誌のページ数が減らされた。また、この号からロゴマークが週刊誌時代のものに戻された。

『ライフ』は、広告主にとってより魅力的なものにするために、広告の価格を34%値下げした。同誌は1993年7月、広告主への発行部数保証を170万部から150万部に12%削減した。この時代の出版者はノラ・マクアニフとエドワード・マッカリック、編集者はダニエル・オクレント(英語版)だった。『ライフ』は初めて、タイム社の姉妹誌『フォーチュン』と同じトリムサイズになった。

1999年、同誌は財政的に苦境に立たされていたが、それでも20世紀を締めくくるリストを作成してニュースになった。『ライフ』の編集者は、「この1000年で最も重要な出来事」をランク付けした。このリストは、西洋の業績に焦点を当てすぎているとして批判された。また、「この1000年で最も重要な100人」のリストを発表した。このリストもまた、西洋に焦点を当てすぎていると批判された。


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