ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
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また、1967年から俳優として他の監督の作品への出演も始めている[5][11][12]
演劇時代の幕開け : アクツィオン・テアーターとアンチテアター

1967年に、演出家俳優としてミュンヘンの小劇場(劇団)「アクツィオン・テアーター(行動劇場, Aktion-Theater)」に参加した[13][5][注 7]。初めて単独で演出を担当した舞台は1967年、フェルディナント・ブルックナー[注 8]の1928年の戯曲『犯罪者』[注 9]だった[16][注 10]。「この頃から多くの演劇グループとの交流を始めた。同劇場解散後の1968年5月、ペール・ラーベン(ドイツ語版)[注 11]ら仲間たちと劇団「アンチテアター(ドイツ語版)(反劇場)」を結成[13]。このグループにはファスビンダー映画の常連となるメンバーがすでに顔を揃えている。1968年から1971年の間、ファスビンダーはこれらのグループのほぼ全ての戯曲を執筆し、演出家として上演した。これらは舞台演劇として上演された後、短期間で映画としても再製作された。ファスビンダーは舞台演劇の演出と映画製作を混交させるスタイルを用いた。

1969年からはアンチテアターのメンバーらとともに長編映画の製作も始め、初の長編であるギャング映画『愛は死より冷酷』を製作[18]。続いて同年、自作の戯曲を元に自身が演じる外国人労働者を登場させた映画『出稼ぎ野郎』を発表し、1970年のドイツ映画賞(長編映画賞)を受賞するなど話題となった[19]1970年から1971年の二年間には『悪の神々』(1970年)や『聖なるパン助に注意』(1971年)など、テレビ映画・テレビ演劇も含めて10本の映像作品を矢継ぎ早に発表した。

ファスビンダーはグループのメンバーを自身の周囲に結束させ、影響力を発揮し始めた。ある種の擬似家族になったグループは、彼の創作への情熱を引きつける避雷針でもあったという。このグループにはファスビンダーの公私に渡るパートナーたちも参加していた。『ホワイティ』撮影後の1970年[20]から1972年までファスビンダーは女優イングリット・カーフェンと結婚していた。ファスビンダーは歌手でもあったカーフェンのためにシャンソンの歌詞も数曲製作した。その間、男優のエル・ヘディ・ベン・サレム(英語版)とも関係を持っていた。
国際的名声

1972年以降、ファスビンダーは自身の映画言語を発展させ、より長大でプロフェッショナルな作品を製作した。女性だけが登場する『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972年)、ダグラス・サーク監督の『天はすべて許し給う』にオマージュを捧げた『不安は魂を食いつくす』(1974年)、テレビ映画『マルタ』(1974年)、初めてゲイを題材に取り上げた 『自由の代償』(1975年)などを立て続けに発表。ベルリン国際映画祭へ出品を重ね、無冠のまま批評家から最高の賛辞を受けた。1974年には『不安は魂を食いつくす』は第28回カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞エキュメニカル審査員賞を、『マルタ』は英国映画協会サザーランド杯を受賞した。これらの作品によって、ヴィム・ヴェンダースヴェルナー・ヘルツォークとともにニュー・ジャーマン・シネマの担い手として、国内外でその名が知られるようになった。


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