ライナー・マリア・リルケ
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10月にザロメ夫妻の後を追ってベルリンに移り、夫妻の近くの住居に住みベルリン大学に学んだ。翌1898年にはイタリアに旅しながらザロメに宛てて『フィレンツェ日記』を執筆[1]。またこの頃にライナー・マリア・リルケに改名している。

1899年4月、リルケが「本来の意味における私の最初の本」とエレン・ケイに語った詩集『わがための祝い』を出版する。この詩集は1909年に『旧詩集』として、多くの改訂が施されたうえで再刊された。リルケはミュンヘン時代すでに一定の文名を得ていたが、これまで若さに任せて矢継ぎ早に模倣的な恋愛詩を多数描いたことを悔やみ、『旧詩集』以前の初期の詩集は生前に再刊を許さなかった。

この年の4月下旬から6月の中旬にかけて、リルケはザロメ夫妻の案内でロシア旅行を行なった。ロシアでは多くの芸術家と交流を持ち、ことにモスクワで71歳のトルストイを訪れその人となりに多大な感銘を受けている。1900年にも5月上旬から8月下旬にかけてふたたびザロメとともにロシアを訪れた。2度のロシア旅行はリルケの精神生活に深い影響を与えることになり、また人々の素朴な信仰心に根ざした生活に触れた経験は『神さまの話』や『時祷詩集』を生む契機の一つとなった。
ロダンとの出会いオーギュスト・ロダン

ロシア旅行に先立つ1898年にリルケはイタリア旅行を行なったが、このときフィレンツェで青年画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合い親交を結んだ。フォーゲラーは北ドイツの僻村ヴォルプスヴェーデに住んでおり、リルケは1900年8月に彼の招きを受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家のオットー・モーダーゾーン女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家と交流を持った。1901年4月、リルケは彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚し、ヴォルプスヴェーデの隣村であるヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えた。

1901年12月には一人娘であるルートが生まれるが、しかし間もなく父からの援助が断ち切られることになり生活難がリルケを襲った。クララは弟子をとって彫刻の教授を始め、リルケも知人に仕事の斡旋を頼み、画家評論『ヴォルプスヴェーデ』と『ロダン論』執筆の仕事を得た。やがてヴェスターヴェーデでの生活は解散を余儀なくされ、1902年8月にリルケは『ロダン論』執筆のためパリに渡り、9月に初めてオーギュスト・ロダンに会った。また妻クララも娘を自分の実家に預けてパリに渡りロダンに師事したが、しかし貧しさのため夫妻は同居することができず、それぞれ別々に仕事をしながら日曜にだけ会うという生活であった。夫妻が安定した結婚生活を送ることができたのは新婚当時の1年と数ヶ月に過ぎず、これ以後リルケがヨーロッパ各地を転々としたことから一家は離散状態となった。パウラ・モーダーゾーン=ベッカーによるリルケの肖像(1906年)

リルケは図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けた。ことにロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事とは、リルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」を始めとする、対象を言葉によって内側から形作ろうとする作風に向かわせた。またリルケが直面したパリの現実と深い孤独も、その詩風と芸術や人生に対する態度を転換する大きな契機となった。その末に辿りついた成果が1907年の『新詩集』である。またこの転換を端的に示すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」というリルケの言葉が残っている。リルケは一時ロダンの私設秘書になり各地でロダンについての講演旅行なども行なっており、その後誤解がもとで不和となったものの、リルケのロダンに対する尊敬は終生変わることがなかった。

以降もリルケはポール・セザンヌシャルル・ボードレールなどに傾倒しながら自身の芸術を深めていき、1910年1月末に、パリでの自身の生活を題材にして6年の歳月をかけた小説『マルテの手記』を完成させた。「この仕事が終わったら死んでもいい」と語るほどこの小説に精力を注いでいたリルケは一種の虚脱状態に陥り、完成後しばらくは妻子の住むベルリンで過ごした。
第一次大戦までドゥイノの館(2008年撮影)

1910年4月にリルケはイタリア旅行を行い、マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス・ホーエンローエ公爵夫人の招きを受けて、アドリア海に臨む孤城であるドゥイノの館に滞在した。ここで哲学者ルドルフ・カスナーと知り合い、彼の仲介でアンドレ・ジッドととも親交を結んだ。リルケは1914年までこの館に4度滞在しており、そこで新たな霊感を得て1912年から連詩『ドゥイノの悲歌』の執筆を始めた。しかし第一次世界大戦を挟む中断を余儀なくされ、完成を見るのは10年も後のことになった。その間リルケはアフリカ旅行を行なってアルジェ、エジプトを訪れ、またイグナシオ・スロアガへの興味と、彼を通じて知ったエル・グレコへの傾倒からスペイン旅行も行なっている。これらの旅行によってリルケの視野は地中海地域全体にまで広がった。

1914年1月、リルケは文通を通してブゾーニ門下の女性ピアニストであるマクダ・フォン・ハッテンベルクと知り合った。


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