ライド_(バンド)
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プロデュース、アートワークなども彼ら自身が手掛け、曲のクレジットもバンド名義という、バンドの初期衝動に非常に忠実な作品となる。なお、『ノーホエア』のアナログ盤(コンパクトカセットを含む)はイギリス本国では「Seagull」から「Vapour Trail」までの8曲の形でオリジナル・リリースされ、CD盤では『FALL EP』の残る3曲を加えた11曲という形でリリースされている。

同年暮れには早くも初来日を果たし轟音を聴かせてくれた彼ら (アンコールではビートルズの「Tomorrow Never Knows」を披露。また、渋谷ON AIRではアンプがふっ飛んだという話も) は、1991年3月にリリースされたEP『Today Forever』 (「Unfamiliar」「Sennen」等を収録) のツアーに合わせ、半年という短期間のうちに再来日を果たしている。1992年3月、2枚目のアルバム『ゴーイング・ブランク・アゲイン』をリリース。アルバムでは、オープニングの「Leave Them All Behind」でイントロを飾るシーケンサー・フレーズを筆頭に、生ギター+ストリングスによる「Chrome Waves」 (なお、先行シングル「Leave Them All Behind」のカップリング曲として収録されたバージョンはバンドサウンドアレンジになっている) やネオアコ風のポップチューン「Twisterella」など、新しい試みが行われる。
1994年 - 1996年 転換期

1993年世間では『ゴーイング・ブランク・アゲイン』の成功と共に彼らの3枚目のアルバムのリリースが待たれていた。ファーストとセカンドでの変化として曲のクレジットがバンド名義から個人名に変わったことが挙げられるが、この頃からメンバーそれぞれのアーティストとしての自我の発芽、さらに結婚して家庭を持つ等プライベートの転機もあり、初期衝動のままバンドの1/4の存在として活動していくには難しい局面を迎えていく。人気とは反比例してバンド内の結束が弱くなり、特にガードナーとベルの音楽的価値観の違いが大きくなってきた。1994年に彼らの3枚目のアルバムである『カーニバル・オブ・ライト』をリリース。その頃から音楽シーンの中心はブリットポップへと移り変わっていった。『カーニバル・オブ・ライト』で彼らはルーツミュージックへの接近等『ゴーイング・ブランク・アゲイン』以上に新たな音楽への可能性を試みた (ザ・クリエイションのカバー曲「How Does It Feel to Feel」もアルバムに収録された) が、一方で、スタジオワークによる構築感、安定感の強いそのサウンドからは初期ライドのサウンドに特徴的だった衝動性、疾走感、メランコリーといったエモーショナルな要素 (若さ特有の、というべきか) が後退してしまった。
1996年 解散

1995年、彼らは4枚目となるアルバム『タランチュラ』のレコーディングを行っていた。アルバム『カーニバル・オブ・ライト』ではガードナーが半分の楽曲を、ベルがもう半分の楽曲を書いているが、アルバムがこの形に落ち着くまでには相当ないざこざがあったようだ。だが『タランチュラ』のレコーディング開始当初、ガードナーとベルの間には軋轢などもなく、バンドの雰囲気も良い方向に向かっていくように思われた。しかし、『カーニバル・オブ・ライト』制作時に表面化した不協和音は、アルバム制作が進むにつれてより深刻なものとなってゆく。

ところで、『タランチュラ』のほとんどの楽曲はベルによるもので、ガードナーはわずか1曲を提供したにすぎなかったが、これはガードナーが楽曲制作の意欲を失ってしまっており、満足いくものを書けなかったことによる。ベルは当時のバンドの状態を嘆いており、『タランチュラ』収録の「Castle on the Hill」という楽曲の中では彼の当時のバンドに対する思いが描かれている。またレコーディング末期にはガードナーがバンドから無理矢理脱退しようとする事態が発生した。

この時期には彼らのサウンドにも更なる変化が現れていた。1995年から1996年にかけて、オアシスの『モーニング・グローリー』が空前のヒットを飛ばしていたことからもわかるとおり、ブリットポップが音楽シーンを席捲していた。その影響からか、ライドの方向性も『カーニバル・オブ・ライト』以上にシューゲイザーから離れ、よりブリットポップ寄りのものになっていった。ライド初期の轟音サウンドは復活したものの、ノイズ色の強いサウンドは鳴りを潜め、よりポップで耳あたりのよい楽曲が主流となっていった。

数々のトラブルを経て、アルバム『タランチュラ』は1996年3月にリリースされた。だが、チャートアクションは最高位21位と商業的にも失敗に終わってしまった。(しかしアルバムからのファースト・シングル「Black Nite Crash」は『メロディー・メイカー』誌のシングル・オブ・ザ・ウィークを獲得している)

またアルバム・リリースよりも先にライドは分裂してしまい、1996年1月には正式に解散を発表した。バンド・メンバーが若すぎたことで、壊れてゆくバンド内の人間関係が手に負えなくなり、更にバンドの音楽的なスタイルが変わってゆくのを主導するリーダー的な役割を誰も担うことが出来なかった末の結末だった。
1997年 - 2001年 解散後

ライド解散後、ベルは新しいバンド、ハリケーン#1を結成する。しかしハリケーン#1は2枚のアルバムを残して解散。その後、ベルはゲイ・ダッドのツアーに帯同し、加入寸前というところで、突如オアシスにベースで加入することが決まった。

ガードナーとコルバートは、スーパーグラスとの仕事で知られていて、自身も The Mystics というバンドを組んでいた Sam Williams と共にアニマルハウスというバンドを結成。BMGと契約して1枚アルバムをリリースする。

しかし2001年にはBMGと契約を切られてしまい、それと前後する形でバンドは解散。ガードナーはソロ・アーティストとなった。一方、コルバートはスタジオ・ミュージシャンとなり、The Zimmermenというボブ・ディランのトリビュートバンドなどで活躍していた(バンド名はディランの本名の姓を複数形にしたもの)。

ケラルトはライド解散後すぐに音楽活動から身を引き、オックスフォードにある小売店チェーンの店長を務めている。
2001年 - 2014年 チャンネル4そして再結成

2001年10月16日、ライドの4人全員にてチャンネル4での撮影を合意した。その映像は30分間の演奏の中でのベルとガードナーの2人の独特なフィードバック奏法ディストーションも含め、ソニック・ユースのドキュメンタリーに使用された。レコーディングされた曲と2本の短いサウンドチェックの様子は2002年に『Coming up for Air』としてリリースされた。この限定CDのリリースで興味深いのはバンドとして今後のリリースを検討するきっかけになったことである。2002年後半、ライドは3枚組CDボックスセットとして『OX_4 The Best of Ride』、『Firing Blanks (Unreleased tracks)』、『Live_Reading Festival 1992』をリリース。2003年、BBC でのレコーディングをシリーズ化した『Waves』をリリース。現在 DVD が作成中であり、バンドのマネージャーである Dave Newton は今後ライブ版のインターネットでのリリースを検討中とのことである。

ガードナーも現在ソロでのキャリアを歩んでいる。2003年から2005年までの間、カードナーは自分自身のフルレングスのスタジオ・アルバムを制作するため広範囲にわたってツアーを行った (時々オックスフォードの友達である Goldrush とともに)。ツアーの合間に3曲入りの EP である『Falling Out Into the Night』とライブ・アルバムである『the acoustic solo Live @ the Knitting Factory, New York City』をリリースした。彼は2005年に French duo の rinocerose と仕事をしている。2005年の終わり頃、ガードナーは自身のアルバムである『These Beautiful Ghosts』を北米で United For Opportunity レーベルからリリース。日本でも2006年4月に philter レーベルからリリースされている。

バンドが新しい音源を提供し、一緒にインタビューに答えている事実から、バンドの終焉の主な原因の一つであったガードナーとベルとの間の対立は修復されていると言える。

今後の恒久的なバンドの再結成の可能性だが、ベルからおそらく期待に応えられないとしてはっきりと否定されている。しかしながら、ベルを含めたメンバーはもう一度一緒にプレイすることに関しては今は気にならないだろうと言っている。ベルとコルバートがガードナーの初期のツアーに出演したことをきっかけに、ベルは2003年11月にガードナーがベルの現在住んでいるストックホルムにツアーで訪れた時に2日間のアコースティック・セットに現れている。


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