ライト兄弟
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オーヴィルが写真技術を持っていたため良い記録写真が多く撮られていたが[8]1913年のグレートマイアミ川の洪水でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは、アメリカ議会図書館のライト兄弟アーカイブ[9]に保管されている。

それまでの他者による飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行ない、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解しないどころかむしろ冷淡であり、国内では様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。ノースカロライナ州キルデビルヒルズ砂丘における初飛行(1903年12月17日)。操縦者はオーヴィル。横にいるのはウィルバーで、離陸滑走の間、地面に触れないように支えていた翼端を離している。この飛行を見ていた観客はわずか5人であった。
成功のポイント

ライト兄弟は、他の大勢が失敗していたのに如何にして成功できたのかという質問に対しては、確かな答えを持っていなかった。本物の天才だからというのが答えだろうと言われても、ウィルバーはそれを否定し、次のように言っている。「私には、個々ではそれほど重要ではない他の要因が数千にも合わさって、単なる知的能力や発明の才よりも10倍以上も強い影響を与えているように思える。もし時間が巻き戻っても、自分たちが行ってきたことを再び自分たちで実行できる可能性は全くないだろう。それは、偶然の出来事が奇妙に組み合わさったおかげであり、二度と起こらないかもしれない」[10]

航空分野の歴史家たちはそれでも成功の理由を探ろうとしてきた。

チーム・ライト兄弟の実質的なリーダーであったウィルバーは、両親がイェール大学への進学を期待した勉学とスポーツの両方で優秀な学生であった。しかし、アイスホッケーで大怪我を負ってからうつ病を発症し、自宅で引きこもり生活を送っていた。大学への進学も断念した。弟オーヴィルの印刷業を手伝い、流れに任せた人生を送っていたが、ウィルバーは人生の大きなチャンスがまだ未来にあるかもしれないと常に考えていた。したがって、ウィルバーの深層の思いでは、自分が一般大衆から抜きん出るための手段として実用的飛行機の追求へ乗り出していた。既に社会的な成功を収めて、興味と投資を理由に飛行機の開発に乗り出してきたライバルたちにはない、容易に退却できないという感情を、ウィルバーは抱いていた[11]

技術者として見ると、兄ウィルバーと弟オーヴィルは、まったく異なるタイプの技術者であった。兄ウィルバーは飛行機全体を見て、バランス、力学的動作、安定性を思い描き、飛行機をシステムとして考えることに長けた技術者だった。他方、弟オーヴィルはドライバーやペンチを握ることを渇望し、機械要素を細々とした細部の観点から考えることに長けた技術者だった。ライト兄弟も自分たちの相違点を理解していたし、それが、兄弟が成功した秘訣の一つであった。二人のどちらもが、他方の長所を頼りとして自分の短所を補う、そうした心構えができていた[12]

ライト兄弟は互いに議論することに大きな喜びを感じていた。ウィルバーは次のように述べている。「オーヴィルと喧嘩をするは実にいい。本当にオーヴィルは喧嘩好きな男だ」[13]。オーヴィルも次のように言っている。「議論が長くなると、馬鹿げたことにいつの間にか互いの主張が逆になっていて、しかも議論が始まった時から意見の一致が何もない」。それを見ていたライト自転車店の機械工(チャーリー・テイラー)は次のように言っている。「両者とも感情的だった。お互いに大声を出してひどいことを言っていた。本当に怒っていたとは思わないが、熱くなっていたのは確かだ」。ライト兄弟は激しく言い合いながら、真実の核心部が浮かび上がってくるまで、一種の口頭速記のように素速くアイデアをぶつけ合っていた[14]

ライト兄弟は、飛行機開発に乗り出した最初期に、すなわち最初の1899年凧の段階で、既に正解を得ていた。自転車を趣味としていた経験からバンク旋回の必要性に気づいて、ロール運動の手段としてたわみ翼を考案した。その結果、第一次世界大戦期の主力構成であった、矩形翼の複葉機構成を採用しており、しかもたわみ翼をたわませる仕組みにとって矩形翼の複葉機構成がほぼ必須であったため、他の翼形状(コウモリのような翼)や他の翼構成(昆虫のような翼)を試すなどして技術的に迷走する余地がなかった[15]

それまで多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し[注 6]、ライト兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、また同時に技術的工学的に着実な手法を取った。風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の改良を行った。研究の初期には、当時の飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授が所属するスミソニアン協会から研究資料の提供を受けていた[16]

グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験データを収集するとともに飛行技術を身につけることができた。グライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であり、他者のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったと本人たちが述べている[17]

兄弟の成功に先立つ1903年10月7日12月8日の2度、兄弟も教えを請うたサミュエル・ラングレー教授の飛行機エアロドロームは飛行テストを実施したが、どちらも機体は飛び立つことなく川へ転落した。スミソニアン協会会長の地位にあり、アメリカ政府援助のもと主導した実験の失敗はラングレー晩節の評価を地に堕とした。ラングレー教授のプロジェクトは、まず無人動力飛行機で実験を行い、次に有人動力飛行機を飛行させるというものであり、パイロットにとっては「ぶっつけ本番」を強いられるものであった。

飛行記録からするとオーヴィルの方が操縦に長けていたようである[注 7]。兄弟は実験回数を増やすために「安定した強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れたキティホークをその場所に選んでいた。安定した強風が必要だったのは、グライダーを凧のように繋留索で空中に固定して、安全かつ安定に実験をするためである(リリエンタールは風がどの方向から吹いてもいいように人工の丘を作った。また墜落で命を落とした)。

また、兄弟は自転車店を経営することで研究に必要な資金を自弁できた上[注 8]、自転車の技術を活用することも可能であった。例えば2基のプロペラはチェーン駆動であり、回転の向きを左右で逆にしてトルクを打ち消すためにチェーンを片方交差するなどしている。

一方で彼らの機体は機体の前方に水平安定板兼昇降舵があるなど、安定性の面に問題もあり、実際後年の再現プロジェクトはその点で苦労している。しかしながら、安定性と操縦応答は両立しないため、ライト兄弟は操縦応答を最優先した飛行機で飛行してこそ、本物の飛行であるという強い信念を持っていた。そして単なる精神論だけでなく、兄弟は滑空飛行を繰り返し操縦に熟練したことによって、成功を得た。
後年の復元検証

ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず[注 9]、完成した復元機に至っては離陸すらできなかった[18][注 10]。ライト兄弟が成功したのは当日の強風[注 11]と、それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もある。
成功への反発

ライト兄弟は実験に成功したが、世間はこれを信用をしないばかりかこぞって反発した。サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍ジョンズ・ホプキンズ大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。

実際のところ、ライト兄弟の信条がこのような状況を招いていた。ライト兄弟は世間の流儀や仲間たちの動機を信用していなかった。飛行機の公開飛行を行えば、その機会に乗じてライバルは自分たちの技術を盗むと考えていた。飛行機の販売契約が完了するまでは、たとえ購入の可能性のある人でも飛行を目の当たりにすることも、飛行機を見ることさえも、許されなかった。さらに、取引が済むまで、いかなる種類の写真、図面、技術的解説も利害関係者に提供されなかった。ライト兄弟は、自分たちの正直な言葉を信じないのは自分たちに対する侮辱だと考えた。つまり、言葉だけで理解してもらえることを期待していた[19]

逆に後年ヘリコプターの実用性が議論されるようになった時期、オーヴィルは1936年の書簡中で「ヘリコプターには根本的な問題がある」、「ヘリコプターの開発には資金がかかりすぎる上に商用性もおぼつかないので誰もとりかかられないだろう」と書いている。
飛行成功後の苦悩と闘い

「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟を待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。

ライト兄弟の成功と飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていたこともあり、争いや妬みの対象にもなった。特に兄弟にあからさまな敵意を向ける2人の人物がいた。その1人はチャールズ・ウォルコットである。有人動力飛行に失敗したラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長の地位に就いた彼は、民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めず、スミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」を一切展示しなかった。もう1人はグレン・カーチスである。腕の良い飛行家だった彼は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して係争した。しかし、冒頭の裁判所の判断もあり、ことごとく敗訴していた。

カーチスはライト兄弟のパイオニアたる地位を否定すれば特許について有利な立場になれると考えていた。カーチスはウォルコットと手を結び資金援助を得て、1914年5月と6月にラングレーのエアロドローム再飛行実験を行ない成功した。ところが、実はエアロドロームにはカーチスの手により35箇所もの改造が加えられており、もはや全くの別物になっていた。実験結果を受け、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」との声明を発表、丁寧に1903年当時の形状に戻したエアロドロームを、人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してワシントン国立博物館に展示した。


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