ヨーロッパ
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それに対しデマラトスは、ギリシアの自由民は自ら定めた法に忠実であり、降伏勧告を受諾する事はないであろうと返す[17]。ヘロドトスは、神聖的絶対君主に「隷属」するアジアと、国民たちによる規律ある「自由」のヨーロッパを対比させている[17]。しかし厳密にはヨーロッパではなくギリシャを対比させている。ヨーロッパは比較的自由だがギリシャは自由だ、としている後代のアリストテレスと共に、ヨーロッパと自己を区別したギリシャの自意識がここにある。

このような対比はアイスキュロスの『ペルシア人』にもあり、ペルシア人の合唱隊がクセルクセス1世の母アトッサを神の妃であり母と讃えるのに対し、決戦に向かうギリシア人が「祖国に自由を」と叫ぶ姿を描写した[17]。古代ギリシアでは、このように隷属を特徴とするアジアとは異なる社会形態を持つ地として、自らの社会を区分する概念を持っていた[17]

以下は「ヨーロッパ史」を参照
ヨーロッパ文明の系譜

古くからヨーロッパ文明の源泉として、ギリシャ文明ローマ文明の存在が語られ、ヨーロッパ文明は、このいわゆる「地中海文明」の直系の子孫だとされてきた[47]。ギリシャ文明から西ヨーロッパ文明という直線的系譜があると当然のように考えられ、ヨーロッパ文明は、ギリシャ・ローマの地中海文明に、ユダヤ教の子孫であるキリスト教が合体して形成された、「ヘレニズムとヘブライズムの統合としてのヨーロッパ」いうイメージが一般に流布してきた[47]

しかし、このような「3000年にわたる『ヨーロッパ文明』の連続性のイメージ」は、真実とは言い難く、西ヨーロッパ文明とギリシャ・ローマ文明の直接的連続性は存在しない[48]。ギリシャの地中海文明をそのまま連続的に受け継いだのは、5世紀以降のビザンツ帝国、8世紀以降のイスラーム世界であり、むしろ西ヨーロッパ世界は、イスラーム世界の勃興で地中海文明から切り離されることで成立した[48]。ギリシャ・ローマ文明はイスラーム文明を経由し、そこでの独自の発展を含めて12世紀を中心にヨーロッパにもたらされており、西ヨーロッパ文明が基盤を確立したのは12世紀以降である[48]。「ヨーロッパ文明の源泉としてのイスラーム文明」は長い間無視され、ヨーロッパ中心主義の時代には特に無視・軽視されてきた[48]。近年では(2002年時点)、ヨーロッパがイスラーム文明を取り入れて、それを吸収することでどのように自らの文明を築いていったのか、経緯が明らかになりつつある[47]

ギリシャ・ローマ文明という外部的要因だけでなく、ゲルマン的地盤に注目すべきだと力説する人々もおり、最近ではケルト的地盤が言及されることも増えている[47]
地理ヨーロッパと周辺の高低差を表した地図。タンメルコスキ川(英語版), タンペレフィンランドオーデル川, シュチェチン, ポーランド詳細は「ヨーロッパの地理(英語版)」を参照

ヨーロッパは、ユーラシア大陸西の1/5を占める陸地であり[26]、アジアとの地形的に明瞭な区分がない[10]

ヨーロッパの主軸山系は西からピレネー山脈アルプス山脈カルパティア山脈ディナル・アルプス山脈がある。これらは急峻ではあるが、古代からかなり高地にまで集落がつくられ交易が行われていたように、アジアのヒマラヤ山脈のような人跡未踏の地にはならず、山脈の両側にある程度の分岐を施しながらも断絶させるようなものではなかった[49]

河川は、ヨーロッパ大陸が小さいため、アジアやアフリカ・アメリカのような大河が無い。アルプス山脈北側は北ヨーロッパ平野などの比較的広い平野をゆるやかな川が流れる。これらの水量は一年を通して変化が少なく、また分水嶺が低い事もあって運河建設が容易な特徴も持っており、水運を発達させやすい性質を持っている。例えば国際河川であるライン川は1000トンクラスの船がスイスまで曳航可能である[50]。これに対し、地中海に注ぐヨーロッパの河川は、源流となる山脈が海に近いため短く、かつ水量がポー川を除きおしなべて少ない[50]

人文地理的な区分[50]をヨーロッパに施すと、3つの領域に分けることができる[51]。アフリカを含めた地中海沿岸は、ナイル川流域[50]やイベリア半島の一部を除き、およそ内陸と呼べる平野部分が狭い。そのため、各文明は海岸前沿岸部に形成され、そして発展は内陸よりも地中海へ漕ぎ出す志向を強めた[51]。これに対し、アルプス北部の西ヨーロッパには水運に適した河川が多く見られる[52]。そのため、この地域では港湾都市が海岸線よりも河川流域で発達し、ケルンブレーメンハンブルクそしてロンドンもこの例に当たる。海岸都市はオランダなど16世紀以降にしか見られない[50]。13世紀以降は開墾が盛んになり、河川地域や沼沢地の開墾が盛んになり、海岸線の開拓にも着手されるようになった[52]。残る東ヨーロッパは東ヨーロッパ平原の平坦で単調な地形が広がり、中央アジアの草原地帯へと続いている。そのため東方からの異民族侵入に弱く、結果的に何度も占拠を許した。ヨーロッパの防衛線は、事実上西ヨーロッパの東端となり、東ヨーロッパは都市化が遅れた[53]
ヨーロッパの国々詳細は「ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧」を参照

国名漢字表記[注釈 10]原語(公用語)表記首都
アルバニア共和国阿爾巴尼亜Shqiperiaティラナ
アンドラ公国安道爾Andorraアンドラ・ラ・ベリャ
オーストリア共和国墺太利/奥地利Osterreichウィーン
ベラルーシ共和国白露西亜/白俄羅斯Беларусь/Белоруссияミンスク
ベルギー王国白耳義/比利時Belgie/Belgique/Belgienブリュッセル
ボスニア・ヘルツェゴビナ波士尼亜赫塞哥維納Bosna i Hercegovinaサラエヴォ
ブルガリア共和国勃牙利/保加利亜Българияソフィア
クロアチア共和国克羅埃西亜/克羅地亜Hrvatskaザグレブ
チェコ共和国捷克?eska Republikaプラハ
デンマーク王国丁抹/丹麦Danmarkコペンハーゲン
エストニア共和国愛沙尼亜Eestiタリン
フィンランド共和国芬蘭Suomi/Finlandヘルシンキ


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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