ヨーゼフ・ゲッベルス
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しばしばドイツ民族自由党のための演説にも駆り出された[35]。さらに同年10月4日には同紙の編集長を任せられている[36]

しかしブルジョワ保守的なヴィーガースハウスやドイツ民族自由党と社会主義的な思想を持つゲッベルスとでは反りが合わなかった。また『民族的自由』紙は小規模すぎて、社会への影響力が皆無であったし、ゲッベルスの見るところでは支持者も頭が鈍いのが多いので、彼らに向けて演説したり、物を書いたりするのが億劫になっていった。家族への手紙の中でゲッベルスは「どさ回りの一座にいる名優のような気分だ」という愚痴をこぼしている[37]

ゲッベルスは1924年末頃から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働かせてもらえないか頼み込むようになった[38]。逆にヴィーガースハウスとは疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された[39]。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した[40]
国家社会主義ドイツ労働者党闘争時代
ナチス左派この時期のゲッベルスの上司グレゴール・シュトラッサー

その後カウフマンの口利きでナチ党幹部オットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方のお兄さんグレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(特にゲッベルスの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した[41]

1925年2月22日に非公式ながら入党した(正式な入党は1926年3月22日で党員番号は8762。後に特別な党員番号22が与えられた)[42]

1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。またこのポストは北部および西部のナチ党指導者グレゴール・シュトラッサーの秘書を兼務するものであった。給料は200マルクでヴィーガースハウスの下にいた頃の2倍になった[43][44]

ゲッベルスは、数々の演説をこなして急速に頭角を現し、シュトラッサー兄弟に次ぐ北西ナチ党のリーダーの座を確立していった。シュトラッサー兄弟とともに南部ミュンヘンの党本部への敵対行動を強めた。党首アドルフ・ヒトラーの指導体制は一応認めつつもユリウス・シュトライヒャーヘルマン・エッサーら「ミュンヘンのごろつき」をヒトラーの側近から排除することを主張し、西部や北部の社会主義的・左派的な方針でもってナチ党全体を運営させようと画策した。ゲッベルスはミュンヘンの党本部からシュトラッサー兄弟に次ぐ「党内左翼偏向勢力」(ナチス左派)の領袖と見なされていくこととなった。1925年8月21日付けのゲッベルスの日記には「ヒトラーを倒してグレゴールに党の主導権を握らせるべきだ」とまで書かれている[45]

1925年9月10日には北西ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体(Arbeitsgemeinschaft der nord- und nordwestdeutschen Gaue der NSDAP)」(略称NSAG)の創設に携わった[46]。グレゴールが指導者、ゲッベルスが事務局長(geschaftsfuhrer)に就任した。これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長のエッサー)へ対抗するものであった[47]。しかしこれは北西ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一と内部対立が露呈した。その内部対立の中でもゲッベルスはオットーとともに極端な社会主義的路線をとり、「まず社会主義的救済。それから嵐のような国民の解放がやってくる」と主張した[48]。対する南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。北西ナチスが南部ナチスの権力に常に及ばなかったのはこうした状況のためだった[49]

1925年10月にグレゴールが発行していた機関紙『国家社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)』の編集を任せられている[50]。同紙でのゲッベルスの言論は国家主義よりも社会主義にアクセントを置く物が多かった[51]。例えばソビエト連邦との同盟を盛んに唱えたり、インド中国を「反抗的な持たざる国」と定義してこれらの国とのイデオロギー連帯を訴えた[51]

この頃のゲッベルスはソ連について次のような好意的評価をしていた。「ソヴィエト体制はボルシェヴィストだとか、マルキストだとか、インターナショナルだとかでは長続きしない。それはナショナルだから、ロシア的だから存続しているのだ。ロシア皇帝はかつてロシア人民の情熱と本能をその深みで捕らえたことはなかった。レーニン、彼はそれを成し遂げた」「ロシアが目覚めたなら全世界は一国家が引き起こす奇跡を目のあたりに見ることになるだろう」[51]。ただしその一方で「共産主義は真の社会主義のグロテスクな歪曲にすぎない。我々が、我々だけがドイツにおける真正の、いやヨーロッパで唯一の社会主義者になりうるのだ」とも論じている[52]
ヒトラーとの出会い1927年のヒトラー

ミュンヘン党本部と対立を深めながらもゲッベルスはヒトラーとの面会・和解も願っており、1925年10月12日付けの日記には「僕は一度ミュンヘンへ行かねばならない。一度二時間だけでもヒトラーと二人きりで話せれば、すべて氷解するはずだろうに。」と書いている。そして実際に1925年11月4日にミュンヘンを訪れ、ヒトラーと初めての会見を行った。ゲッベルスは初対面でヒトラーに魅了され、11月6日の日記にはこう書いている[53][54][55]。僕は車でヒトラーの所へ行く。彼はちょうど食事時だろうと思っていたら、さっと立ちあがってもう僕たちの前に来ている。僕の手を握った。まるで古くからの友人のように。あの大きな青い瞳。星のようだ。彼は僕に会えてうれしいという。僕はすっかり喜んだ。(中略)彼はさらに半時間演説した。機知、アイロニー、ユーモア、嘲罵、真摯、激情、情熱を持って。王者たるすべてをこの男は持っている。生まれついての護民官。未来の独裁者。

ヒトラーもシュトラッサー兄弟を味方にできる見込みがない以上、北部や西部のナチ党を掌握するためにはゲッベルスを味方につけることが重要と認識していた。そのためヒトラーは彼に大変気をかけていた。1925年のクリスマスにヒトラーは「模範的な貴方の闘いに」という賛辞とともに『我が闘争』をゲッベルスに贈っているほどである[56]

しかしヒトラーとの出会いによってゲッベルスのナチス左派的傾向がただちに減少したわけではなく、彼はこの後も引き続きシュトラッサー兄弟と親密な関係を保ち、またその思想は相変わらず社会主義的な色彩を強く見せる国家主義だった。


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