ヨーゼフ・ゲッベルス
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なおこの論文は美学的関心が主であり、政治的傾向はほとんど見受けられないが、ゲッベルスは宣伝大臣となった後、自分が学生時代から政治に関心を持っていたかのように糊塗するために論文のタイトルを『初期ロマンチシズムの精神的、政治的傾向』に改めさせている[26]1921年のゲッベルス

大学時代には左翼的な思想を持っていたと見られる。フライブルク大学在学中にリヒャルト・フリスゲス(Richard Flisges)という共産主義者の復員兵と知り合った関係で彼からマルクスエンゲルスの著作、ヴィルヘルム2世とドイツ軍国主義を批判するラーテナウの著作、ロシアびいきのフリスゲスが好きなドストエフスキーの著作などを借りて読むようになり、それらから思想的影響を受けた。反戦とワイマール憲法支持を唱えるリベラル紙『ベルリナー・ターゲブラット(ドイツ語版)』の熱心な読者にもなり、同紙に50通も投稿を行っているが、投稿が紙面に採用してもらえたことはなかった[27]

また大学在学中のゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフ(ドイツ語版)教授はユダヤ人であり、博士論文の執筆指導教員マックス・フォン・ヴァルトベルク(ドイツ語版)男爵も片親がユダヤ人の半ユダヤ人だった[28]。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人のエルゼ・ヤンケ (Else Janke) という女性と恋愛関係にあった[29]。1919年に友人に宛てて送った手紙の中にも「きみも知っての通り、僕はこの行き過ぎた反ユダヤ主義者たちが嫌いではないかもしれない。確かにユダヤ人は、僕の特別な友人だとは言えないけれども、罵倒や非難、さらに迫害によってユダヤ人を始末してはいけないと思う。たとえそのやり方が許されるとしても、それは高潔ではないし、人間性に悖る」と書かれている[30]
知識人のプライドと失業と反ユダヤ主義1922年のゲッベルス

1922年に博士号を取得し大学を離れたが、職が見つからず、一時ライトの両親の家に戻ることとなった。その後、ドレスナー銀行ケルン支店にようやく仕事を見つけたが、不況によりわずか9か月で解雇されている。この銀行に勤務していた頃に1923年の大インフレを経験しており、ドイツ経済の惨状を目の当たりにした。ゲッベルス自身もますます貧困に苦しむこととなった。彼は反資本主義の思想を持つようになり、これが高じて反ユダヤ主義の思想を徐々に芽生えさせた。資本主義経済を牛耳る「国際金融ユダヤ人」に対して「生存のための戦い」を挑む以外に「より良い世界」への道は開けないというユダヤ陰謀論を唱え始めるようになった[29]

家族への恥ずかしさのあまり、リストラ後もしばらくケルンへ通うふりをしている。しかしやがて路頭に迷って家族に失業を打ち明けるしかなくなった[31]。失業中は少年時代の頃のように再び部屋にこもりがちになった。家族からは「貧しい家計をやりくりして勉強させてやったのに」と白眼視された[32]

彼は、新聞社のジャーナリストか放送局の文芸部員に再就職しようとしたが、いずれの会社からも採用を拒否された。この時、彼の採用を拒否した会社の中にはユダヤ系企業もあった。彼の目には知識人である自分に生活の糧を与えようとしないこの世界は「ユダヤ化されている」と映り、ユダヤ人への憎しみを強めることとなった[31]

恋人のエルゼもこの時期からゲッベルスの反ユダヤ主義の高まりを感じるようになった。ゲッベルスは彼女に「ユダヤ人がドイツの文学を支配しているので、せっかく骨を折って書き上げた傑作も突き返される」「ユダヤ人でなければ、文壇にも、劇壇にも、映画界にも、ジャーナリズムの世界にも入れないようになっている」といった愚痴をよく聞かせるようになったという[33]

ゲッベルスの日記には次のような焦燥が書かれている。「この居候生活の惨めなこと。僕にはふさわしくないこんな生活をどうしたら終わらせることができるのか。それを考えると頭が痛い。何一つ成功してくれない。いや成功することが許されないのだ。贔屓と経歴だけが物を言うこの世界で数のうちに入れてもらうためには、自分の意見とか、信念を主張する勇気とか、個性とか、性格と言われる物を真っ先に全部捨てなければならないのだから。僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ。」[31]
政治活動開始

ゲッベルスが政治家としての第一歩を踏み出したのは1924年のことであった。友人フリッツ・プラングに誘われて様々な社会主義者あるいは国家社会主義者の政治集会に参加し、演説などをするようになったのである[34]

こうした活動の中の1924年8月、小右翼政党ドイツ民族自由党所属のプロイセン州議会議員フリードリヒ・ヴィーガースハウス(ドイツ語版)の知遇を得て、ヴィーガースハウスがエルバーフェルトで発行していた新聞『民族的自由 (Volkische Freiheit)』の編集員の地位を月収100マルクの給料で手に入れた。しばしばドイツ民族自由党のための演説にも駆り出された[35]。さらに同年10月4日には同紙の編集長を任せられている[36]

しかしブルジョワ保守的なヴィーガースハウスやドイツ民族自由党と社会主義的な思想を持つゲッベルスとでは反りが合わなかった。また『民族的自由』紙は小規模すぎて、社会への影響力が皆無であったし、ゲッベルスの見るところでは支持者も頭が鈍いのが多いので、彼らに向けて演説したり、物を書いたりするのが億劫になっていった。家族への手紙の中でゲッベルスは「どさ回りの一座にいる名優のような気分だ」という愚痴をこぼしている[37]

ゲッベルスは1924年末頃から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働かせてもらえないか頼み込むようになった[38]。逆にヴィーガースハウスとは疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された[39]。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した[40]
国家社会主義ドイツ労働者党闘争時代
ナチス左派この時期のゲッベルスの上司グレゴール・シュトラッサー

その後カウフマンの口利きでナチ党幹部オットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方のお兄さんグレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(特にゲッベルスの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した[41]

1925年2月22日に非公式ながら入党した(正式な入党は1926年3月22日で党員番号は8762。後に特別な党員番号22が与えられた)[42]

1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。


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