ヨーゼフ・ゲッベルス
[Wikipedia|▼Menu]
宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった[7]。父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を有していたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった[7]

母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた[8]

ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にコンラート(ドイツ語版) とハンス(ドイツ語版)、姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる[9]。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた[10]

ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた[11][12]。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった[12]。このことは、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」[12]ギムナジウム在学中のゲッベルス(1916年)

友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のマイアー百科事典を愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒも息子ならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした[13]。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし彼は人から好かれるタイプではなく、担任の教師からも嫌われていたので教師の歓心を得ようと同級生の告げ口をすることが多かったという[14]

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると学校は愛国心の熱狂に包まれ、多くの学生たちが出征を希望した。ゲッベルスも従軍を希望し、兵員募集に応じて兵役検査を受けたが、担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。その日ゲッベルスは部屋で夜通し泣きじゃくったという[15]。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている[16]

1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語国語宗教が「優」であった。ギリシア語フランス語歴史地理数学物理もそれに次ぐ「良」であった[17]
大学時代大学生時代のゲッベルス(1919年)

ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている[18]。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している[19]

ボン大学では歴史と文学を中心に学び、特にゲーテの劇作を熱心に研究した。当時のドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが通例だったが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏にはフライブルク大学へ移り、授業料を免除されて古代ギリシャやローマの影響を研究する考古学者・古典芸術研究家ヴィンケルマンの研究にあたった。さらに冬にはヴュルツブルク大学へ移って古代史と近代史を学んだ[20]

この時期に起きた第一次世界大戦の敗戦やドイツ革命による混乱については、1918年11月13日に友人フリッツ・プラング(Fritz Prang)に宛てた手紙で次のように書いた。「君もまた野蛮な大衆の声よりも知識人階級の指導が要望される時が再びやってくると思わないか。我々はそういう時が一刻も早く訪れることを待望しようじゃないか。そしてその日に備えて我々の知識を辛抱強く鍛えようではないか。現下のような祖国の暗黒時代に生きることは全く辛いことだ。しかしこの辛さに耐えて生き抜くことが後日、我々に大きな利益をもたらさないと誰が言えよう。なるほどドイツは戦争に負けた。だがしかし我らの愛する祖国が、いつの日か勝利者の地位にとって代わることがないと誰が言えよう」[21]

1919年夏には再びフライブルク大学へ戻ったが、この頃からカトリックへの信仰心が薄れたとみられ、カトリック学生同盟から離れている。また1919年冬にはミュンヘン大学に移るが、ますますカトリック教会との関係を断ちたがるようになり、奨学金を受けた生徒の義務だった協会への勉学報告書の提出も怠るようになった。敬虔な父からも心配され、迷いを捨ててひたすら神へ祈りをささげるよう求める手紙を送られている[22]

1920年にハイデルベルク大学へ移り、歴史、言語学、美術、文学を学んだ[23]。また1921年春から4か月かけて博士論文『劇作家としてのウィルヘルム・フォン・シュッツ(ドイツ語版)。ロマン派戯曲史への寄与(Wilhelm von Schutz als Dramatiker. Ein Beitrag zur Geschichte des Dramas der Romantischen Schule)』を執筆し、これにより1922年4月21日にハイデルベルク大学より博士号(Dr. phil.)を授与された[24]。この学位授与はゲッベルスの知識人としてのプライドを大いに満足させた[25]。なおこの論文は美学的関心が主であり、政治的傾向はほとんど見受けられないが、ゲッベルスは宣伝大臣となった後、自分が学生時代から政治に関心を持っていたかのように糊塗するために論文のタイトルを『初期ロマンチシズムの精神的、政治的傾向』に改めさせている[26]1921年のゲッベルス

大学時代には左翼的な思想を持っていたと見られる。フライブルク大学在学中にリヒャルト・フリスゲス(Richard Flisges)という共産主義者の復員兵と知り合った関係で彼からマルクスエンゲルスの著作、ヴィルヘルム2世とドイツ軍国主義を批判するラーテナウの著作、ロシアびいきのフリスゲスが好きなドストエフスキーの著作などを借りて読むようになり、それらから思想的影響を受けた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:378 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef