母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた[8]。
ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にコンラート(ドイツ語版) とハンス(ドイツ語版)、姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる[9]。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた[10]。
ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた[11][12]。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった[12]。このことは、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」[12]。ギムナジウム在学中のゲッベルス(1916年)
友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のマイアー百科事典を愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒも息子ならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした[13]。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし彼は人から好かれるタイプではなく、担任の教師からも嫌われていたので教師の歓心を得ようと同級生の告げ口をすることが多かったという[14]。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると学校は愛国心の熱狂に包まれ、多くの学生たちが出征を希望した。ゲッベルスも従軍を希望し、兵員募集に応じて兵役検査を受けたが、担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。その日ゲッベルスは部屋で夜通し泣きじゃくったという[15]。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている[16]。
1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語、国語、宗教が「優」であった。ギリシア語、フランス語、歴史、地理、数学、物理もそれに次ぐ「良」であった[17]。
大学時代大学生時代のゲッベルス(1919年)
ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている[18]。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している[19]。