イギリスの新聞タイムズが発行するThe Times Higher Education Supplementは、毎年発表している大学ランキング「The Times Higher World University Rankings」の2008年版において、フランクフルト大学を世界のベスト200に入る大学であるとしている。
歴史
基金大学創立ボッケンハイムキャンパス、物理学協会 (Physikalischer Verein
大学の創立は、フランクフルトの上級市長であったフランツ・アディッケスの尽力にさかのぼる。アディッケスの希望は、フランクフルトに工業会社を誘致することのほか、文化・教育を支援することであった。この目的のため、アディッケスは大学の設置に結びつく全ての動きを支援した。アディッケスのパートナーとなったのは、メタルゲゼルシャフト(Metallgesellschaft, 今日のGEAグループ)の創立者であるヴィルヘルム・メルトンで、メルトンもやはり、商業と工業だけでなく、社会の豊かさと学問の間にも分かちがたい関係があるという確信を持っていた。こうして、メルトンが資金を注ぎ込んだ社会・商業科学アカデミー (Akademie fur Sozial- und Handelswissenschaften) が1901年に創設された。
このアカデミーは、同様に資金提供を受けて設立された他の研究所・施設と並んで、後にフランクフルト大学の母体となる役割を果たすものとなった。ハンナ・ルイーズ・ロートシルト (Hannah Louise Rothschild) が1890年に大学歯科医院(通称:カロリヌム/Carolinum)を開設。11年後にフランクフルト市はは書籍商カール・クリスティアン・ユーゲルの遺産より200万ライヒスマルクの寄贈を受け、これをフランツ・アディッケスはすぐに施設の建設に注ぎ込んだ。さらに、銀行家ゲオルク・シュパイアーの未亡人フランツィスカが、伝染病の研究所を設立するための資金を提供した。この研究所には、後にノーベル賞受賞者となるパウル・エールリヒが1906年に所長として就任している。フランツィスカからの資金によって、大学設立のための資本は1,400万マルク以上にもなり、当時のプロイセン王国においてベルリンと並んで最も設備の整った大学をフランクフルトに設置できる条件が出揃うことになった。
アディッケスとメルトンは、所管するプロイセンの議会やフランクフルト市評議会 (Stadtverordnetenversammlung) の反対に打ち勝ち、1914年に皇帝ヴィルヘルム2世から基金により運営する大学(Stiftungsuniversitat, 以下「基金大学」)開校の認可を引き出すに至った。こうして、同年の10月18日に正式にフランクフルト大学が設立された[3]。皇帝は第一次世界大戦勃発のため開校の式典に出席できなかったが、学長のリヒャルト・ヴァクスムートは44名の学生たちを握手で迎え入れた。最初の学期となる1914年の冬学期は50名の教授陣が講義を担当し、618名の学生(うち女子100名)が新たに入学した。画期的だったのはユダヤ人の教授が教鞭をとる初の大学となったことであり、これはその多くがユダヤ人だった出資者たちの強い希望でもあった。 第一次世界大戦の敗戦によって基金の資産は壊滅的な打撃を受けたが、それでもフランクフルト市とプロイセン政府との間で取り交わされた大学の協定は財政的な問題とは無縁だった。大学理事会、およびフランクフルト市と出資者の一族たちが発言権を持っていた会議によって、市と大学側のつながりも確保されていた。1918年から1932年の短い間、大学は大きく花開く時期を迎え、専攻分野が広がるとともに重要な学者が次々に招聘された。1916年にユリウス・ツィーエン
専攻分野の拡大
1924年、ヴァイル家の肝いりで社会研究所が創立される。所長には経済学・社会学専攻の教授を兼ねていたカール・グリュンベルクが任ぜられた。1930年にはグリュンベルクの後任として、フランクフルト学派を代表する学者のひとりであるマックス・ホルクハイマーが就任。1932年からは「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学」の名称を冠するようになり、フランツ・ローゼンツヴァイクやマルティン・ブーバーらのユダヤ人学者、福音主義神学のパウル・ティリッヒなどが教壇に立った。