ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
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生誕日二日後に、幼児洗礼が聖ゲオルク教会(ドイツ語版)で行われ、ゴータの町楽師セバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハの森林官ヨハン・ゲオルク・コッホが代父を務めた[3]1692年(7歳) に、この教会に付属したラテン語学校に入学している[3][注釈 1]。幼少時のバッハがどのように育ったか詳しいことは分かっていないが、恐らく父アンブロジウスの指導のもと楽器を演奏し始め、同教会に務めていた父の従兄ヨハン・クリストフ・バッハ (1642-1703) のオルガン演奏も聴いていたと思われる[3]

1694年5月(9歳)には母エリザベートが亡くなり、父は同年11月に再婚したものの、翌年の1695年2月に父も他界した[4]。その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプ (1682-1722) と共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフ (1671-1721) の家に引き取られて勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学んだ[4]

幼少期のバッハの音楽に対する情熱を伝える有名な逸話がある。パッヘルベルの弟子でもあった兄ヨハン・クリストフは、フローベルガーケルルといった南ドイツの作曲家の楽譜を所有していたが、それをバッハには決して見せなかった[4]。それを見たかったバッハは、夜な夜な月明りの下で半年もかけて写譜したが、最終的にこの写譜した曲集の存在を兄に知られてしまい没収されてしまう、というものである[4]聖ミカエル教会

1700年にはオーアドルフの学校を退学して、同年3月15日に親友のゲオルク・エルトマン (1682-1736) と共にリューネブルクに移る[5]。そこで、聖ミカエル教会付属の学校[注釈 2]の給費生となり、ボーイ・ソプラノとして「朝課合唱隊」の聖歌隊員に採用される[5][6]。この15名から構成された合唱団への入団には、高い音楽的能力が必要とされ、遠くのテューリンゲンザクセンからも応募が来るほど入団が難しかったが、バッハは自身の優れた音楽的能力によって難なく合格したと思われる[5]。入団当時バッハは既に15歳だったため入団からまもなく変声期を迎え、ボーイ・ソプラノとして歌うことは出来なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラや通奏低音の楽器の演奏をすることで楽団の中で活躍していた[5]

リューネブルク時代のバッハは、北ドイツでの音楽生活を満喫し、その音楽を吸収していった[7]。同じリューネブルクの聖ヨハネ教会には、ゲオルク・ベームがオルガニストとして活躍しており、バッハは彼に敬意を払っていたとされる[7]。リューネブルクから少し離れたハンブルクには、従兄のヨハン・エルンスト・バッハ (1683-1739) が、同じくハンブルクの聖カタリナ教会にはラインケン[注釈 3]がおり、更には鵞鳥市場のオペラ劇場では、カイザーのオペラ[注釈 4]が度々上演されていた[7]


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