町はずれに住んでいたヨハンは、居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムと出会い、男女の仲になる。やがて恋人アンナは妊娠し、それを機に彼女と結婚する[6]。結婚のために昇給をランナーに願い出たが、拒否されてしまう[11]。ランナーとの仲は次第に険悪になっていった。またランナーはシュトラウスの作曲したワルツを買い取り、自分の作品として公刊した[11]。まったく根拠が無かったわけではないが、シュトラウスの曲をランナーが盗作したとの噂が立つようになった[12]。
ワルツ合戦ヨハンの『大ガロップ』を踊る人々(1839年)
ランナーとの対立が決定的となったのは、1828年にウィーン郊外の舞踏場ボックで演奏を行った時である[11]。ランナーとシュトラウスは揃って演奏したが、どういうわけか激しい口喧嘩が始まり、やがてヴァイオリンの弓や譜面台や太鼓のばちが空中を飛び交うありさまとなった[11]。ふたりの関係は完全にこじれ、シュトラウスは自身の楽団を組織して自立した。こうして、世に「ワルツ合戦」と称される両者の激しい競合が始まった。(多くの伝記に書かれている出来事であるが、現場目撃者による記録は存在せず、実際には乱闘事件はなかったとみる向きもある。)
シュトラウスとランナーはウィーンで絶対的な人気を誇り、1829年にワルシャワからやって来たショパンは「ワルツ合戦」の影に隠れて注目を集めることができなかった[13]。最初の自作ワルツ『華麗なる大円舞曲』をウィーンで出版することを望んでいたショパンであったが、断念せざるを得なかった[13]。この際にショパンはこう嘆いた。
「ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ……[13]。」
ヨハンとランナーは訣別から3年後の1831年に仲直りをしたが、かつてのような心を開きあった交際に戻ることはできなかった[14]。
ヨハンはヨーロッパ中の大都市に演奏旅行をするようになり、ワルツの人気はとりわけ西ヨーロッパを風靡した[15]。1838年、ヴィクトリア女王の戴冠式に合わせて、ワルツが冷遇されていたイギリスへの演奏旅行を行い、イギリスでもワルツを認めさせたことはヨハンの大きな功績のひとつである。1838年のシュトラウスについて、ベートーヴェンの弟子であったイグナーツ・モシェレスは、「まじめなロンドンの人々でさえも、ヨハン・シュトラウスの虜になっている」と記録している[16]。
息子ヨハンのデビュー息子ヨハン・シュトラウス2世のデビューコンサート新聞告知(1844年)
1843年、ライバルだったランナーが世を去り、主な舞踏会やコンサートをヨハンが独占することとなった[2]。この時期からヨハンは、ウィーンの『劇場新聞』やベルリンの批評家などから「ワルツ王」と評されるようになった[2]。しかし、翌1844年には自身の息子であるヨハン・シュトラウス2世が音楽家としての活動を開始した。ヨハン2世は父の影響を大いに受けて音楽家になることを夢見ていたのだが、音楽家という職業が浮き草稼業であることを知っていたためにヨハンはそれに猛反対し、息子をむりやり総合技術専門学校(現ウィーン工科大学)に入学させた[17]。しかしヨハン2世は夢を諦めきれず、大学を中退して音楽の勉強をし始めたのであった。今では息子のヨハンまでもが見よう見まねでワルツを作曲する気だ。まだ取っ掛かりをうまくつかんでいないようだが……。この分野ではお山の大将である私でさえ、なにか新味のあるものを作ろうとすると、やけに難しいというのに……[18]。 ? ヨハン1世が言ったとされる言葉
ヨハンは息子の行動に驚き、そのデビューをあらゆる手段を使って妨害しようとした[19]。ウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけてコンサート会場を使わせないようにし、配下の楽団員には息子に味方することを固く禁じ、あげくのはてには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとした[19]。