ドイツへの帰路船が難破したが、運良く救い出され、九死に一生を得た。途中のハンブルクではレッシングと会うことができた。その後、任務である王子のお供をし、イタリアへと旅立った。途中の街で、妻になるカロリーネ・フラックスラントに逢う。しかし、宮中の他の人物たちとうまが合わず、なかなか思うようにいかない旅行だった。そこへ彼の性格に適した牧師の話が届き、シュトラスブルク滞在中、王子に同伴の辞退を申し入れる。眼病を癒しながらその準備をしていた時、当地の学生であった若きゲーテがヘルダーを訪ねてくるという、ドイツ文学史上特筆すべき出会いがあった。ゲーテはヘルダーからシュトゥルム・ウント・ドラングという新しい文学観を吹き込まれたのであった。1771年の春であった。
また、かねてからヘルダーの哲学において常に関心の中心にあった言語の問題に関する懸賞論文を執筆し、『言語起源論』として1772年に出版した。ヨハン・ペーター・ジュスミルヒ(Johann Peter Susmilch)の言語神授説に対して、ヘルダーは言語を人間によってのみ作り出されたものであるとし、神による創造を徹頭徹尾否定したのである。この書は、神秘的な思想を持つ師匠のハーマンには批判されたが、後の世のヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどにも影響を与え、後の近代言語学の礎にもなった。 シュトラスブルク滞在後、かねてから望んでいた牧師の職についた。場所は、ザクセン公国(現ニーダーザクセン州)の小都市ビュッケブルク(Buckeburg)である。文学だけでは生計がままならず、孤独な時期でもあった。1776年、ヴァイマルで政治家をしていたゲーテの尽力により、ヴァイマル公国の宗務管区の総監督につくことができ、学者として大いに活躍することができた。この頃のゲーテは、既に疾風怒濤の時代を離れていた。1780年代には、ヘルダーはゲーテと共同で当時タブーであったスピノザの哲学を研究する(後のスピノザ論争の機縁になるとともに、現代におけるスピノザ研究の礎になった)など、ドイツでも屈指の著名な学者になっていた。1784年から1791年にかけて、未刊の大著『人類歴史哲学考』を著し、人類の歴史の発展過程を「人間性」と「時代精神」という概念を軸に論述した。またフランス革命に感銘を受け、『人間性促進のための書簡』(1793-95年)を著した。これはかの歴史的出来事を、ヘルダーの依拠した人間性と時代精神の観点から考察したものである。いずれも古典主義文学に見られるゲーテの美的世界観に対する批判でもあった。これらの書に対しては、ゲーテやシラー、カントらから厳しい評価がなされる。 これへの応酬として、ヘルダーは、かつての恩師で当時ドイツ哲学界を席巻していたカントの唱えた批判哲学に対する再批判の書『純粋理性批判のメタ批判』(1799年)、『カリゴーネ』(1800年)を著す。ヘルダーによれば、カントの哲学は人間の意識を個々の諸能力に分解し、対象世界を「現象」と「物自体」という非生命的なものに分断しており、「純粋な理性」や「ア・プリオリな認識」などは人間理性本来の姿をわきまえない単なる「言葉の乱用」であり、カント哲学は人間理性本来の姿である言語の問題をいっこうに直視していないという。人間性・歴史性を重視するヘルダーの哲学らしい立場をみせるが、これらの書で彼のカント哲学に対する誤解や理解不足が認められたのも事実であった。しかしヘルダーの哲学が、19世紀から20世紀にかけてカント以来のドイツ観念論哲学が批判的に検討され、歴史主義や人間学的な立場が旺盛になるにつれて、この先駆をなすものの一つとして評価されていることも見逃せない。文化の中心地ヴァイマルにおいて、ヘルダーにしてみれば、時代が自身の考えを受け入れようとはせず、友人や恩師とも論争を繰り返さなければならないという苦悩の晩年を過ごしつつ、1803年に59歳で没した。
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