ヨハン・ゲオルク_(ブランデンブルク選帝侯)
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また、ヴェッティン家やヨーロッパのほとんどのプロテスタント君主のように、教皇グレゴリウス13世の暦改革を導入しなかった。

ヨハン・ゲオルクの死後、選帝侯位は息子のヨアヒム・フリードリヒが継承した。
勝利の並木道の像

ベルリンにあった勝利の並木道のため、彫刻家マルティン・ヴォルフがヨハン・ゲオルクの像を中心とした記念碑群21を設計した。胸に十字架を掲げたヨハン・ゲオルクの像は、宗教問題に対する選帝侯の厳格さを強調している。ヨハン・ゲオルクは肘掛け椅子の背もたれに腰掛けており、その上にはシュパンダウ城塞の設計図が置かれている。両脇には、ローフス・ツ・ライナール伯爵(城塞の主な建築家)とゲオルクの厳格な緊縮政策を支持したランパート・ディステルマイヤー首相の胸像があった。その記念碑群の除幕式は1901年12月18日に行われた[8]
子女ヨハン・ゲオルクと妃ザビーナ

1545年レグニツァ公フリデリク2世の娘ゾフィアと結婚。

ヨアヒム・フリードリヒ(1546年 - 1608年) - ブランデンブルク選帝侯

1548年ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクアルブレヒト・アヒレスの曾孫)の娘ザビーナと再婚し、3男8女をもうける。

ゲオルク・アルブレヒト(1555年 - 1557年)

エルトムーテ(1561年 - 1623年) - 1577年にポンメルンシュチェチンヨハン・フリードリヒに嫁ぐ

アンナ・マリア(1567年 - 1618年) - 1581年にポンメルン=シュチェチン公バルニム10世に嫁ぐ

ゾフィー(1568年 - 1622年) - ザクセン選帝侯クリスティアン1世に嫁ぐ

1577年アンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘エリーザベトと再婚し、7男4女をもうける。

クリスティアン(1581年 - 1655年) - ブランデンブルク=バイロイト辺境伯

マグダレーナ(1582年 - 1616年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世に嫁ぐ

ヨアヒム・エルンスト(1583年 - 1625年) - ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯

アグネス(1584年 - 1629年) - 1604年にポンメルンヴォルガストフィリップ・ユリウスザクセン=ラウエンブルクフランツ2世の息子フランツ・カールに嫁ぐ

フリードリヒ(1588年 - 1611年)

エリーザベト・ゾフィー(1589年 - 1629年) - ヤヌシュ・ラジヴィウ侯、ザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・ハインリヒに嫁ぐ

ドロテア・ジビッラ(1590年 - 1625年) - ブジェク公ヤン・クリスティアンに嫁ぐ

ゲオルク・アルブレヒト(1591年 - 1615年)

ジギスムント(1592年 - 1640年)

ヨハン(1597年 - 1627年)

ヨハン・ゲオルク(1598年 - 1637年)

脚注^ Eugen Wolbe: Geschichte der Juden in Berlin und in der Mark Brandenburg. Kedem, Berlin 1937, p. 79.


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