ヴォイティワは、前教皇ヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗った。そして新教皇として、第2バチカン公会議の精神の実現を前教皇から引き継ぎ、現代社会に適合した形への典礼の刷新を推進した。
ヨハネ・パウロ2世は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇の誕生でもあった。このことは故郷ポーランドにおいてナショナリズムの高揚と、社会主義国としてソビエト連邦の衛星国であることへの抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。 ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどであった。最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまで、実に世界100ヶ国以上を訪問している[4]。勉強熱心で飛行機の中などでも学習し、訪問先の言語で簡単な演説をすることで有名だった。 ヨハネ・パウロ2世は同年2月23日のローマ教皇として初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた[5]。 またヨハネ・パウロ2世は、キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、故国ポーランドが焦土と化した実体験から、戦争に対しては一貫して反対の姿勢を取っていた。ポーランド人としてナチスと共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いたことが、教皇就任後も反戦平和主義を貫く大きな動機となった。 イラク戦争中に2003年、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が「神の加護を」「神の祝福あれ」と「神」を引用して戦争を正当化していたのに対し、ヨハネ・パウロ2世は「神の名を用いて殺すな」と不快感を示し、「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪である」と批判していた。 さらに1980年代後半以降の東欧の民主化運動において、精神的支柱の役割を果たしたともいわれている。特に、冷戦下で独裁政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。 ポーランドは国民の98%がカトリック信者であり、教皇が着任8ヶ月後に初めての故国訪問をしたが、熱狂的歓迎をもって迎えられた。ヨハネ・パウロ2世はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「恐れるな」と訴えた。その4ヶ月後の「独立自主管理労働組合「連帯」」が率いたストライキなどを経て政権は妥協路線を走り始め、1980年代後半の冷戦終結時には民意に押されて政権が民主路線へ転換している。 なお、このような民主化運動への後援の姿勢がソ連を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、後の暗殺未遂事件(後述)につながったという指摘があった。また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せた。 ヨハネ・パウロ2世は他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会や英国国教会との和解への努力を行い、エキュメニズムの推進に大きな成果を上げた。カトリックの教皇としては初めてのモスク[6]、シナゴーグ[7][8]、ルーテル教会への訪問[9]、東西教会の分裂以来のギリシャ訪問[10]、イギリス訪問を成し遂げた。
空飛ぶ教皇
民主化運動への影響
他宗教への姿勢
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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