「
人間ひとりひとりと諸国の民の母マリアよ、私達をおびやかす悪の力に打ち勝てるようお助け下さい。
現代人の心にこれほど容易に根ざしてしまう悪、そのもたらす計り知れないもろもろの結果によって、すでに現代の人々のいのちを危険にさらし、未来への道を閉ざそうとしている悪から私達をお救い下さい。
飢餓と戦争、核戦争、計り知れない自己破壊、あらゆる戦争より、主よ、私達をお救い下さい。
あがないと救いの無限の力、神の慈愛の力が世界の歴史において、再び発揮されますように。
神の慈愛が悪をおしとどめ、人間の良心を正し、あなたの汚れなきみ心によって、希望の光が全ての人々に示されますように。」
主な著書
『サルヴィフィチ・ドローリスー苦しみのキリスト教的意味』内山恵介訳、サンパウロ、1988年
『真の開発とはー人間不在の開発から人間尊重の発展へ』山田經三訳、カトリック中央協議会、1988年
『希望の扉を開く』曽野綾子・三浦朱門共訳、同朋舎出版、1996年
『賜物と神秘ー教皇ヨハネ・パウロ二世自伝』斎田靖子訳、エンデルレ書店、1997年
『教皇ヨハネ・パウロ2世の詩』木鎌安雄訳、聖母の騎士社、2004年
『ヨハネ・パウロ二世 愛と勇気の言葉』中井俊已、PHP研究所、2005年
『立ちなさい さあ行こうー教皇ヨハネ・パウロ二世の自伝的回想』中野裕明訳、サンパウロ、2006年
その他
1981年、ポーランドの歴史を背景としたヨハネ・パウロ2世の伝記映画『遠くから来た人』(ポーランド映画)が製作された[25]。
1984年、青年カトリック信者の年次集会であるワールドユースデーを提唱。
1999年、アルバム「アバ・パーテル」でCDデビューした。
2000年、特別な節目となる大聖年を迎え、教皇大勅書(受肉の秘儀)で規定された教会が巡礼の対象となった。
2003年3月、ヨハネ・パウロ2世名義で詩集『ローマの三幅対祭壇画』を刊行し、ポーランドで初版30万部がすぐに完売したほか、全世界でベストセラーになった。
2005年、ヨハネ・パウロ2世の半生を描いたイタリア・ポーランド合作のテレビ映画『カロル 教皇になった男(KAROL - A man who became Pope)』が公開された。世界各国で19言語に翻訳され放映された(日本語版は公開されていない。2014年に「カロル日本語字幕版DVD」が製作された)[26][27]。
2006年9月3日、パリのノートルダム大聖堂前の広場に、従来の「ノートルダム前庭」という名称に「ヨハネ・パウロ2世」の名称が功績を称えて追加された。パリでは著名人を地名に採用する場合、死去から5年待つのが慣例であるが、この名称追加は例外的である(大聖堂の裏の緑地は「ヨハネ23世小公園」と呼ばれている)。
2006年10月16日、ポーランドでヨハネ・パウロ2世の肖像を使用した50ズウォティの記念紙幣が発行された。
文化放送に自身の半生を元にした『わが選択』というラジオドラマ台本を投稿したことがある。惜しくも採用されなかったものの、現在では貴重な文化財として「日本脚本アーカイブズ」主催の展覧会に展示されている。
2011年5月、ローマ市内のテルミニ駅前にブロンズ像が設置された[28]。
人物
教皇ヨハネ・パウロ2世は、その著作(『希望の扉を開く』同朋舎出版)で仏教に対し極めて否定的な見解を明かしている。教皇によれば、仏教は無神論的体系にほかならず、その信徒は苦を本質とする世界に対し無関心を貫くことによってのみ救済されるのだという[29]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ローマ教皇。オランダ出身。在位:1522年 - 1523年。
^ 祝日は10月22日(「ヨアンネス・パウルス 2 世」『新カトリック大事典』)。
^ 教皇の列聖はピウス10世以来、列聖年基準で60年ぶりである。
^ 1975年、真言宗醍醐派品川寺の僧侶である仲田順和は、教皇パウロ6世に東京裁判で戦犯となった人々へのミサを行うことを依頼した。パウロ6世は承諾をするが、1978年に帰天。
出典^ 鈴木宣明、石井祥裕「ヨアンネス・パウルス 2 世」『新カトリック大事典』研究社Online Dictionary。
^ 大谷啓治. “ヨハネ・パウロ(2世)