ヨハネ・パウロ2世_(ローマ教皇)
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ハドリアヌス6世[注釈 1]以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして、史上初のポーランド人教皇である。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でもある。カトリック教会の聖人[注釈 2]、教皇ヨハネ23世とともに列聖された[注釈 3]神学と哲学の2つの博士号を持っていた。

冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たした。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた[2]

また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。
生涯

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非合法神学校から枢機卿へ司祭のときのカロル・ヴォイティワ(ヨハネ・パウロ2世)

カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。

ヴォイティワは若くして家族の喪失を体験した。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。

1939年、ヴォイティワが19歳のときにナチス・ドイツポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優脚本家としても活動していた。

ヴォイティワは第二次世界大戦中の1943年に聖職者として生きることを決意したが、共産主義政権下で神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日司祭叙階された。

優秀だったヴォイティワは、司教の推薦でローマ教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学んだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得している。また、ヴォイティワはこの年にポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たした。

1953年にヴォイティワは『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出、その後もクラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教えた。

1958年7月4日、ヴォイティワはピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日叙階した。時に38歳であった。

1962年に開始された第2バチカン公会議には、クラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献した。

1964年1月13日、ヴォイティワはパウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、1967年7月26日には同教皇によって枢機卿に親任された。
教皇としてビル・クリントンアメリカ合衆国大統領と(1993年)。一般参賀にて(2004年9月29日)。

1978年にパウロ6世の帰天に伴って新教皇に選出されたのは、当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)であった。このコンクラーヴェに参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェに参加することはないだろうと思っていた。

ところが、ヨハネ・パウロ1世が不可解な状況下で在位わずか33日で帰天。1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになった。

コンクラーヴェではイタリア出身の枢機卿の二人が激戦を繰り広げたため選出が停滞、その中でドイツや南米出身の枢機卿らがポーランド出身のヴォイティワを支持し始めると一気に形勢が逆転[3]して、生涯2度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出された(10月16日選出、10月22日就任)。

ヴォイティワは、前教皇ヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗った。そして新教皇として、第2バチカン公会議の精神の実現を前教皇から引き継ぎ、現代社会に適合した形への典礼の刷新を推進した。

ヨハネ・パウロ2世は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇の誕生でもあった。このことは故郷ポーランドにおいてナショナリズムの高揚と、社会主義国としてソビエト連邦衛星国であることへの抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。
空飛ぶ教皇

ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどであった。最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまで、実に世界100ヶ国以上を訪問している[4]。勉強熱心で飛行機の中などでも学習し、訪問先の言語で簡単な演説をすることで有名だった。

ヨハネ・パウロ2世は同年2月23日のローマ教皇として初の来日時には広島市長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間のしわざです」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた[5]

またヨハネ・パウロ2世は、キリスト教の平和と非暴力の教義と、第二次世界大戦中にドイツとソ連の侵攻により、故国ポーランドが焦土と化した実体験から、戦争に対しては一貫して反対の姿勢を取っていた。ポーランド人としてナチス共産主義の脅威を体験しながらカトリックの信仰を守り抜いたことが、教皇就任後も反戦平和主義を貫く大きな動機となった。

イラク戦争中に2003年、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が「神の加護を」「神の祝福あれ」と「神」を引用して戦争を正当化していたのに対し、ヨハネ・パウロ2世は「神の名を用いて殺すな」と不快感を示し、「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪である」と批判していた。


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